懐メロと昭和の洋楽
さて先日無事に誕生した姪っ子ですが、名前が決まりました。
という歌を思い出すときに浮かんでくるのは、尾崎豊であったり、菊池桃子であったりするのだが、今回は斉藤由貴の「卒業」のハナシである。
先日ひさしぶりにカラオケをした。母が千葉県八千代市で居酒屋をやっていて、弟の家族といっしょに盛り上がった。もう最近の歌は知らない。しかしまだ30代前半である弟夫婦の知っている歌をチョイスしなくてはならない。
ここ連日、このブログのアクセス数が急にあがった。なぜだろうと思ったら、どうやら過去にアップした記事が原因であると判明した。 なるほど。ここ連日ライブ中止の件で騒がれているものなあ、ジュリーったら。
昭和63年8月15日は、もうひとつの出来事があった。RCサクセションのアルバム「COVERS」の発売である。
そうなのだ。チェリッシュといえば男女2人組なのだが、もとは5人組のバンドであった。この2枚目のシングル「だからわたしは北国へ」をさいごにチェリッシュは5人から2人に変わっていく。
少年だったころ、どこかで聴いた曲で、歌の題名も歌い手の名前もわからないけれども、メロディーラインだけが印象に残っている歌というのがある。詳細は知る由もない。
手元に一枚のCDがある。タイトル名は「DIMGRAY/ISHIDATE TETSUO VOICE」という。名前のとおり歌ではなく、ただ石立鉄男の声だけが収録されている。その数なんと99トラックもあるんだ。
前回の「木枯らしの二人」につづいて、今回も昭和50年1月のヒット曲のハナシ。この「冬の色」という歌は、百恵ちゃんの7枚目のシングルであり、はじめてオリコン1位になった歌なのさ。
’ 母親から聞くところによると、2歳ぐらいのころ、テレビジョンにこのヒトが登場するとかならず僕は画面に食いついていたらしいんだ。それが伊藤咲子さんだったそうなのだよ。
あなたには歌っているヒトも曲の名前も知らないけれども、この曲どこかで聴いたことある!という経験はないだろうか。その一瞬だけは曲に興味がわくのだが、そのうちまた忘却の彼方においやられてしまうんだ。
クリスマスイブにラジオを聴いていたんだ。特集は”一人ぼっちのクリスマス。そこでリクエストされたのがこの曲だったのだけれど、ぶっちゃけなぜにリクエストした?ってぐらいの衝撃的な歌さ。
こないだいつものようにラジオを聴いていたら、ガロの「ロマンス」という歌が流れたんだ。知っているかい?たぶん歌を聴いたら思い出すのではないかな。番組の中で、12月9日がメンバーの1人堀内護さんの命日だと話していたのさ。
であって決して”そこには田中星児がついてくるだけ”ではないからね。これははじだのりひことシューベルツの「風」という歌の一節。そしてリーダーのはしだのりひこさんがこないだお亡くなりになったね。
いつものようにラジオを聴いていたら、この曲が流れてきたんだ。「世界は二人のために」は、佐良直美さんのデビュー曲であり、昭和42年のレコード大賞新人賞受賞曲でもある。
今週のラジオ日本「タブレット純 音楽の黄金時代」は、1968年11月のヒット曲特集。1968年(昭和43年)は、タブ純さんのいちばん好きな時代なのだそう。昭和43年といえば、あの有名な3億円事件がおきている。
僕にとっての懐メロというのは、現実逃避の一環なのだとおもう。逃避しっぱなしなのは困りものだが、小休止としての逃避というのはあってもいいかなと。いまより純真だったころに還って、また現実に戻るのだ。
「涅槃」とは仏教において、煩悩を滅尽して悟りの智慧(菩提)を完成した境地のことをいう。昭和58年、「おやじ涅槃で待つ」という遺書を残して自死をとげた俳優さんがいた。その名を沖雅也さんという。31歳という若さであった。
ヒデとロザンナの出門英さんが亡くなってから、はやいもので27年になる。最近は男女デュオということばもあまり聞かれなくなった。むかしはそれこそたくさんいたものだが。
この独特な大人の雰囲気。歌の題名を紹介するテロップの手書きのかんじ。バックバンドの譜面台に記された”8”というフジテレビの当時のロゴ。いかにも昭和なあのころのテレビである。 というわけで9月である。夏の暑さもひと段落したかんじで、なぜかしらな…
もう四十も半ばに近づいてくると、浮ついてはいられないとつくづく感じる。四十の歳は不惑というけれども、僕はまだまだ惑わされてばかりだ。ほんとうにもう歳も歳なのだからと、わかってはいるのだけれども。 僕はこの河島英五さんの「時代おくれ」という歌…
今回の「タブレット純・音楽の黄金時代」は、先日の7月24日にお亡くなりになった作詞家、山川啓介先生の特集。山川さんはヒット曲連発というタイプではなかったけれども、インパクトの強い詞が多い印象がある。 だから”あの歌は山川先生だよ”っていうと”…
子どものころ好きだったドラマのひとつが「刑事犬カール」であった。この作品は昭和52年9月から53年の6月まで、月曜の19:30にやっていた「ブラザー劇場」のドラマである。
いまいちど”ジュリー”という存在を噛みしめてみたいと思う。ときは昭和53年になってまもなきころ。場所は新宿河田町のフジテレビ。このころのジュリーはまさに絶頂だった。
僕は神奈川県の藤沢市というところに現在住んでいて、最寄りの駅は、東海道線の辻堂駅である。東京からはちと遠く、電車賃が片道1000円以上かかってしまうが、自然がそれなりにあって、とても気に入っている。もう東京にはおそらく棲めないだろう。
そしてフォークダンスといえばジェンカである。うむ異論噴出だ。そもそもフォークダンスとはなんなのか。ひとことで説明するならば、世界各国にある土着の踊りの総称であり、ジェンカはフィンランドの曲である。
今年の8月1日で、作詞家の阿久悠さんが亡くなって10年になる。数々のヒット作を世に送り出したこのヒトの作詞デビュー作は1967年、ザ・モップスの「朝まで待てない」であった。
「夜のヒットスタジオ」は昭和43年から平成2年まで、実に22年間にわたって放送された歌番組である。大好きで番組後期は毎週欠かさず観ていた。フジテレビがまだ新宿の河田町にあったころの輝かしい金字塔である、といっても過言ではないだろう。
今年の7月22日は、ソングライター浜口庫之助さんの生誕100周年であった。もうそれこそ数えきれない名曲を世に送り出したハマクラさんであるが、あともう少しで8月という今は、やはりこの歌を思い出すのである。
寺尾聰の「ルビーの指環」が席巻した昭和56年。その11月に、ある女性3人組のコーラスグループが、「ウエディング・ベル」という歌でデビューした。そのグループこそがSugarである。