KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

誰でもみんな生きていた【ナショナル洗濯機「うず潮」】

 昭和50年代は千葉市の埋め立て地にある公団に住んでいた。洗濯機はというと、2層式というヤツで、おそらく団地の他の住民もそうだっただろう。ベランダに置いて使っていた。

 
 いまのヒトからしてみると、不便なモノだと思われるかもしれない。いちいちすすぎだ脱水だといって洗濯機まで行かなければならないのだから。ただ2層式にもいいところはあって、洗っているところを眺められるのである。洗っているってかんじがするのだ。



 そしてこのCM。1960年代中盤だろう。いまとなってはこういうお寿司屋さんも少なくなってしまった。自転車で桶を手にもって出前してくれるようなお店ね。途中で築地市場が出てくるぐらいだから、いまだに残る銀座の名店かもしれない。

 そして、このあどけない修業の身の少年も、いまでは立派な寿司職人になっているにちがいない。このCMのすばらしさは、時間をかけて丁寧に作られているところだ。

 一つの物語として作られつつ、機能の説明も簡潔だがそつがない。あの時代の息吹を感じさせる。このCMを見ていると、築地市場がなくなってしまうのが寂しくなる。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。