KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

フリーダムオヤジ宣言をしようぜ

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 駅でこのような啓発ポスターをみつけたよ。いわばこのようなことは、あたりまえではあるのだけれども、さいきんでは「あたりまえなんて誰が決めたんだチクショー!」みたいなニンゲンがふえてしまったのかもしれないね。

 

 やはりこのポスターにもあるとおり、いっけんふつうの中高年がキレたりすることってニュースでもおおくみかける気がする。ちょっと前はオヤジ狩りなんていうコトバがあったけど、いまの時代はむしろオヤジが狩人になっている。あずさ2号でどこに旅立つのだみたいな(ネタが古いぞ)。

 

 僕も理不尽だとおもうと、けっこうすぐ怒るタチなので、ヒトのことをとやかくいえないのだけれどもさ。でもね。いちばんやっちゃいけないことってあると思っているんだ。

 

 それは肉体的であっても、コトバであっても、相手を見下して暴力をふるうということさ。上から目線の一方的暴力には同情の余地はない。でもそれをやってしまうほど、いまのオヤジといわれるごく一部のヒトには、こころの余裕というものがなくなってしまったのだろうか。

 

 もしかしたらどこかで、そういうヒトって見下されているのかもしれないね。それがたまりにたまってしまった結果、行き場を失って爆発してしまったのかもしれない。

 

 オヤジというのも、力が強く孤独ではない強いオヤジと、力のない孤独なオヤジがいたりする。じっさいはそのような意外にシンプルな区分けであるのに、わざと区分けを細かくして、上下関係を作って戦おうとする。戦いに負けつづけていると爆発する。

 

 もうそういう24時間戦えますか的な束縛から、オヤジは解放されるべきだと、もうすぐ45歳の中年になろうとしている僕は、おもうわけだよ。平和な世の中ってとどのつまり、そういうものなのではないかな。

 

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。