KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

公園は死んだ




公園の禁止事項増加 「談笑」「ダンス」「漫才の練習」など 


夏休み終盤、都内のある公園の光景は異様というほかなかった。
隅のベンチで小学生が固まって携帯ゲームに興じている。
広い公園では、他にちらほら歩く人がいるくらいで、まだ陽も残っているのに静まり返っていた。
なぜ走り回ったり球技をしたりしないのかと子供に問うと、こう答えた。

「うるさくしちゃダメって書いてあるから、静かにゲームしてたんだよ。ボール遊びもダメだからサッカーもできないし」

もはやこうなると公園ではない。
「公」を無視して「私」を前面にだしてルールを変えてしまっている時点でその公園はもう「公」のモノではない。
自分が得をしないことに対し、厳しい人が急激に増えた。
しかもそれは”ボール遊びをしない”年寄りに多く観られる。

結局これってコミュニケーションの欠如なのであろう。
本来ならば使う側と互いに話し合い妥協点を探る方が互いに嫌な思いもせずしっくりいくはずなのだ。
それを無視して裏でこそこそ地方自治体なんかににクレームをつけるものだから結局はみんながしっくりこない結末となる。 

だいたいの場合、公園の方が先に在ったものではないのか。
あとから入ってきて公共施設にクレームをつけるのはどうなのか。
新しい抑圧のルールができて、最初は己の個としての意見がまかりとおってOKなのかもしれないが、結局は個を優先して社会を無視すると、大なり小なりの”社会”からしっぺ返しがくるのではないだろうか。

どうだろう。
公共のもののルールを変えようという動きがあるのなら、まずそれを公表し議論する場を作るというのは。
それぐらいしないと、本当に息苦しい社会になりそうだから。
子どもたちが公園でゲームするしかない社会なんてそれこそ息苦しい。

それじゃ失敬。