KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

私も葬式も墓もナシでいい「ゼロ死」を選ぶ


世の中にはゼロ葬式というのがあるのだとか。
ゼロ葬式は「直葬」といって、通夜や告別式などの葬式を行わず火葬のみを行うそうだ。
またその流れでお墓も作らずに、遺骨を海にまくいわゆる海洋葬にしたり散骨にする人が増えている。

これはいい、ぜひ私が死んだときにもそうしてもらいたいものだ。

死んでまで人になるべく苦労はかけさせたくないから。
私のお墓はね、君の心の中にあるんだよ…ぐらいの勢いである。
できれば実家のある千葉県山武市の畑にまいてくれればいい。
なんなら今死んだとしたら、うちの愛犬トラちゃんに食べさせてあげても構わない。
トラのうんこが土に還れば埋葬完了、これぞリサイクル。

なんでこんなことを考えたのか。
もうそろそろ40過ぎたことだし、いつ訪れるかわからない死というものに対して考える必要があるかなというのが理由。
もう死というのはおとぎ話ではないのだ。
そして死生観に関しても考えていて、死に対していかにリラックスして迎えるかということも考えている。

葬式にしてもお墓にしても宗教とは切っても切れない関係にある。
私は宗教に関して過大に期待することを、あることがきっかけでやめた。
だから、葬式やお墓でこういう宗教を信じていましたというような表明をしたくない。
ちなみに私は小学校5年生の時にキリスト教プロテスタントの洗礼を受けている。

宗教に期待することをやめたきっかけ。
あれはちょうど10年前のことだった。
イラクに行った香田証生さんという日本人青年がイスラム教徒に殺害される事件があった。
彼はクリスチャンだった。

多くの日本人が自己責任だ殺されてもしかたないと言い、それどころかこれもお前の自己責任だとばかりに、殺害されるところを撮した動画をメールで回したりした。

KLACKというロックバンドはライブでその動画を流した。

(俺らはアンチモラルとでもいいたかったのだろうが、しょせんは多数派に媚びを売っている一番社会的な行為に過ぎない)

私はこのニュースにふれて、結局は宗教を信じていても、異教徒の圧倒的暴力の前にはしょせん無力なのだと思い知らされた。
よくこういうことをいうと、神様なりの考えがあるという信者がいるが、そんなものは言い訳であり卑怯である。
神様の考えなんか人間に分かりようがないのだから。
だから私は、聖書そのものは哲学書として大事だけれども、宗教に期待するのをやめた。

なんだかんだいっても人の死は過程なのか終末なのかはわかり得ない。
でもどっちにしろ、葬式もいらない墓もいらないというのは私にすごい合っていると考えている。

それじゃ失敬。 



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(ライブスケジュール)

9月25日(木)
 「シェイプレスライブ49」
【開場】18:30 【開演】19:00 【料金】500円
【場所】Studio 中野shapeless 

9月28日(日)
 「あさがやプロットライブ
【開場】18:30 【開演】18:50 【料金】500円
【場所】 阿佐ヶ谷アートスペースプロット