KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

好きだった芸能人が亡くなってすぐに切り替えられるほうがおかしいでしょう




「風邪ひかないように」「もうすぐ一年ですね」 亡くなった芸能人ブログに今もコメントが寄せられる 


「もうすぐ1年ですね 元気にしていらっしゃるでしょうか」「やっくん最近寒くなりましたがいかがお過ごしでしょうか?」「亜子さん、お誕生日おめでとうございます」。

飯島愛さんや桜塚やっくんら、亡くなった芸能人のブログに今でもコメントを寄せるファンは多い。
命日や誕生日などの記念日はたくさんの人がアクセスし、ファン同士で交流する姿も見ることができる。

みなさん死ぬには本当に早すぎた。
それにどっかうまく違う方向にすすめばこんなことにはならなかったかもしれない。
残されたものは気持ちに整理がつかなくてあたりまえだ。 
好きな芸能人の死というのは、近親者を亡くした経験があまりない人にとって重大ごとなのかもしれない。

養老孟司さんの「死の壁」という本にこんなことが書いてあった。


死体には三種類あるのです。「ない死体」「死体でない死体」「死体である死体」の三種類です。
これと対応する人称があることに思い至った。人称というのは英語でみなさんも習った「一人称」「二人称」「三人称」というあれです。死体についても、これとまったく同じ区別をつけて考えることが出来る。 

一人称の死体というのは簡単にいうと自分の死体。
これは実は見られない。
漫画なんかではよく死んだあとに幽体離脱して自分の死体を見たりするけど。
実世界では死んでから自分の死体を見たことあるって人はいない。
だから「ない死体」なんですな。

問題は二人称の「死体でない死体」と三人称の「死体である死体」というのはなにか。
もし知らない人の死体を目にしたら、普通は不快でしょう。
でもよくよく見たら自分の親しい人の死体であった。
それは第三者からみたら死体であっても、自分にとっては死体ではないのである。

なにかの間違いではないか?
こんなことがあっていいはずがない!
そう思っているうちはその死体は死体でないのだ。
しかし日本の場合、人が死んだら火葬にしなくてはならないので、いずれは灰になってしまう。
現実を受け止める間もなく、灰になって実体がなくなってしまうのだ。

それが二人称の死というもの。
かたや三人称の死体というのは、抵抗が少ない。
他国で戦争が起こって道端にごろごろ死体が転がっているのを見ても、不快かなんとも思わないって人は多かろう。
不快に思ってもすぐに気持ちも切り替わる。
親しい人の死とは明確に区別されるものなのである。

だったら好きな芸能人が死んで悲しむ方がよほど健全じゃないかと私なんかは考える。
不遇な死を遂げた人を目の当たりにして、心苦しくなる方がよほど人間らしいではないか。
引きずればいいのだ。
その人のブログをその人が生きた証にして、それを記念碑にしていくらでもメッセージを書けばいいのだ。
みんなで気持ちを分かち合えばいいのだ。

それでいいのだ。

失敬。



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(ライブスケジュール)

9月25日(木)
 「シェイプレスライブ49」
【開場】18:30 【開演】19:00 【料金】500円
【場所】Studio 中野shapeless 

9月28日(日)
 「あさがやプロットライブ
【開場】18:30 【開演】18:50 【料金】500円
【場所】 阿佐ヶ谷アートスペースプロット