KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

高倉健は大根役者だった


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夜勤明けの朝の空。よく見ると上の方に月が写っている。




俳優の高倉健さん死去、悪性リンパ腫で

[東京 18日 ロイター] - 国内各メディアの報道によると、俳優の高倉健さんが悪性リンパ腫のため、10日に東京都内の病院で死去したことが分かった。83歳だった。
高倉さんは福岡県出身。半世紀以上にわたって第一線で活躍し、日本を代表する映画俳優だった。
出演作は「幸福の黄色いハンカチ」や「南極物語」、「鉄道員(ぽっぽや)」など多数。2013年には文化勲章を受章している。

高倉健さんの演技をうまいと感じたことはない。
言い方は悪いが大根役者だ。
以前、なにかの記事でSMAP木村拓哉を批判するのに高倉健の足元にも及ばないと書いている評論家がいた。
わかりやすく権威化された存在と言えよう。

要は評論家の自己正当化のために使われるような権威というやつだ。
確かに権威となるような実績を積み重ねた人だ。
だからって演技がうまいのかというと、それはまた違う話である。
そもそもこの人は、元から俳優志望ではなく裏方志向の人だったはずだ。

しかし時代が彼をスターへと押し上げていった。
でも彼がすごかったのは演技じゃない。
存在感、愚直さ、包容力がすごかったんだ。
健さんはなにを演じても健さんだったが、 仕事に対する姿勢と人柄が皆を惹きつけて離さなかったのではないだろうか。

だから高倉健は何をやっても高倉健でいいのだ。
高倉健は演技がうまいなんて言う人間は、単なる権威主義者なのである。 
そう言っとけば収まりがいいだろう程度の。
悲しいかな、一線で活躍してきた人は年をとるにつれ、周りから権威にまつり上げられてしまうものなのだ。

まつり上げる方も年をとって自由が利かなくから、若者を叩くのに権威を利用してしまうのである。
年をかさねると経験とプライドが増す代わりに実行力を失うものだから。
はてさて、では存在感、愚直さ、包容力とはなんなのか。
こちらなりの解釈を記してみる。

存在感にかんしては観ている人各々が感じるものだから、あえて文章にすることはなかろう。
もう高倉健はそこにいるだけですごい。
それだけのことだ。
きっとあなたの心のなかにある高倉健の思い出がうなずいているはずだ。

愚直さだが、みなさんもご存知のとおり高倉健は不器用なのである。
映画の中で、カツ丼とラーメンをおいしそうに食べる演技をするのに、2日間メシを食わなかったというエピソードがあるほど彼は演技の力を凌駕する不器用さ愚直さを持つ人なのだ。
これも演技力というのならそうかもしれないが、演技がうまいとは言わないだろう。

そして包容力。
高倉健は大根なだけあって、どんな人のうまみでも引き出す。
たとえば映画「幸福の白いハンカチ」でのコメディアンたこ八郎との格闘シーンなんかそうだ。
たこさんといえば、普段テレビではぽわ~んとしたとぼけたかんじだった。

しかしこの映画では、ボクサー時代を彷彿させるキレのある動きとするどい眼光をみせる。
それはたこさんの実力とともに、受ける健さんがすごいゆえに成り立った。
たこさんは迫真のシーンを作るため本気で止まっていた車に体当たりする。
健さんもたこさんに応えるため思いっきりぶつける。

まるでタイプの違う2人だが、攻め手と受け手がリンクしてすごいシーンが生まれたのだ。
おいしいぶり大根のできあがりである。
大根は大根でも、主役級のおいしい存在感のある大きな大根だってあるのだ。