タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。

なぜ蛭子さんはお葬式で笑ってしまうのか


 
 建前で悲しいふりをするのが苦手というか、どこかのタイミングでその葬式全体が”喜劇のように見えてくるんです。一度そのループに入ったらもう終わり。我慢しようと思えば思うほど笑いがこみ上げてしまう。
(中略)
儀式みたいなものに参加して一生懸命に周囲と同じように振る舞おうとしている自分のことが、おかしくなってしまうっていうことなんです。 

蛭子さんはクズといわれている。
そんなクズが新書本を出した。
初版が2014年の8月。
それからわずか3ヶ月で6版までいっている。

みんななんだかんだいっても蛭子さんが好きなんだなあ。
すくなくとも無関心ではいられないにちがいない。
でも蛭子さんがこころの底から嫌いというひとっているのだろうか。
好きとか嫌いという範疇をこえて、珍獣をみてみたいというシンプルな好奇心なのか。

そんなことを考えながら、読みすすめてみた。
なぜ蛭子さんが葬式で笑ってしまうのか興味があったから。
こんなこと文章であらわすことできんのかとも感じるけど。
でもなんとなくわかる気がした。

たしかに遺族はともかく、ちょっと知っているぐらいの相手の死がふかく悲しいわけない。
それを厳粛な顔して遺族と同じようにふるまうなんてたしかに滑稽じゃあないか。
それでみんなとおなじようにやろうやろうとするのもまた滑稽で。
蛭子さんはなにが自由かというと、暗黙の了解というものから自由なんだな。

さすがに奥さまがお亡くなりになったときには悲しかったらしい。
でもそれからしばらくして、テレビ番組の企画でお見合いした人と結婚する。
人はみんな、奥さまに先立たれた男はずっと傷ついていてほしいんだよな。
それどころか、すぐさま後をおって死んでほしいぐらいに考えている。

でもそんな”暗黙の了解”なんて関係なくテレビ番組の企画で結婚してしまう蛭子さん。
蛭子さんを不愉快に思う人もいるだろう。
けれども蛭子さんは、開きなおることはしない。
どう思われようが自由だというところは徹底しているのだった。