前衛アングラ芸人・きぐるいツネちゃん(明智半平太)のブログ「昭和50年代少年のKOTOBASM」

団塊ジュニア世代とも、悲劇の世代ともいわれる昭和48年生まれが管理する、昭和ノスタルジーといまを語るblog。僕たちが生きてきた証のことば。それはイズムそのものである。(明智半平太)

そこのけそこのけブロガー様のお通りだ









 そして、“自分だけの意見”をいうリスクが発生した。もともとあったけれどもそのリスクがものすごく上昇した。
“他人とは違う”“自分だけの意見”をいうと、“クソリプ”とかそういうブクマなり、twitterからのコメントがついたりして、そしてそれは自分の意見だから、自分のコアに直接接続されていて、それをdisられると結構ダメージでかい。(そしてインターネットの仕組み上、disる人間のコストは限りなく低くなる)だから、みんな一般論しか言わなくなる。不自由。60億人が思う、“普通はこうだろうという”意見、そういうものは誰にも非難されにくいし、そして正しい。
最近、ブログが不自由になってきたと思いませんか?より引用


インターネットってそういうものだ。
いぜんに比べればそりゃあ使うひともふえているわけで。
それに比例して非難したり嘲笑したりするひとも増える。
しかも個人を特定されないように。

職場に電凸(抗議電話をかける)されるのは困るが、ネットの範疇でいわれる分にはほおっておけよって話だ。
「60億人が思う、“普通はこうだろうという”意見」ばかり書かれたブログなど誰も関心は向けやしない。
言いたい人間はいわせておけばいい。
それだけ関心をひいているということなのだから。

ただひとつ気をつけないといけないこともある。
あるひとりの無名人に挑発されたとしよう。
それに対して、感情的になってはいけない。
挑発するのはひとりであっても、それに対する返しをあたかもじぶんに向けられているかのように感じる本当は関係ないはずの人間はたくさんいるからだ。

それが面倒くさいから、 「60億人が思う、“普通はこうだろうという”意見」しか書けなくなってしまうのであろうが。
差し障りのない返しをしておいて、 淡々と自分の書きたいことをブログに残しておけばいいのだ。
なにを言われても構わないし、言う権利は尊重するが、こっちはこっちで書きたいことを書く。
1人向けに挑発するのではなく、挑発するなら多くのひとに向ける。

かえってその方がたくさんの人間にああだこうだ言われるかもしれないが、個人的に実力行使される可能性はなくなるだろう。
”disる人間のコスト”って確かに低いが、disったところで生産性がまったくないのだ実際。
だれかに賞賛されるわけでもなし、ただ実体のない多数派というカテゴリーにふわふわと包まれて帰属意識を満足させるぐらいしかメリットはない。

なにかそれもかわいそうではないか。
こっちのほうがよっぽど不自由だ。
一般論に支配されすぎている。
それに比べたら、ブログを書くことは自由だし、書きたい放題書いたらいいのだ。