KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

あなたが放ったその自己責任という言葉は多数派の暴力になってはいないか



自己責任というのはたしかに存在する。
でも連帯責任といっしょにして語るものではなくあくまで別々に語るべきものだ。
連帯責任というとマイナスイメージがあるかもしれない。
でもそれは同胞として支えあうという意味で使ってもいいと考えている。

連帯ということばはもっといい意味で使われるべきなのだ。
ワンフォアオール・オールフォーワン。
このことばとともに、ラグビーボールはゴールへむかって蹴られていくのだ。
Byスクールウォーズである。

自己責任ということばは人を孤独に陥らせることばではないのではないか。
己を鼓舞するために、あるものに向かっていくために、使われるものではないか。
そして、多数にある側が1人もしくは少数を見捨てるためにある言葉ではないと考えている。
ましてや死というものの多くは孤独であるのだから、残されたものが死者に対して使うのはどうなのか。

そう考えさせられるのだ。
このことばを聞くとイラクで非業の死をとげた日本人青年を思い出す。
彼の死は強烈な印象を残した。
彼の死が心ないものたちによって、ふざけの対象になったからだ。

その死に至るまでの映像をメールなどで回覧する。
ロックバンドがライブの演出に使う。
こういう人間たちの言い分はきっとこうではなかったか。

「だって死んだのは自己責任でしょ。」

だったら自分たち多数派がどう扱おうがいいじゃないかと。
そういうおごりがあったはずだ。
責任をなすりつけているのだ。
多数派の暴力で。

責任というのはもっと前向きなものであるはずだ。
責任をもって頑張る。
責任をもって君を守る。
そういうものではないだろうか。