タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。

差別はしないけど区別はすると言うにんげんはたいてい学のないバカ

まさか言うとは思いもよりませんでした。
文学で名をなした曽野綾子ともあろうひとがです。
「差別じゃない区別だ」というのは、学のないにんげんが言うセリフの定番だと、小生は思っていました。
じぶんはバカだからとひらきなおって、 暴力や恫喝などにはしるにんげん、それが学のないにんげんです。

そういう形のね、これは差別じゃない、区別なんですよ、能力のね。
だから差別と区別を一緒にしないで頂きたい。私は区別をし続ける。
芸術家とか、芸術、文化、学問て言うのは区別のものですからね、区別が無かったらどうにもならないんですね。
それは各々が別の種類の才能ですから、差別をする必要が無いものなんです。区別であってね。
差別なんかしなくたって、荻上さんがお書きになるものは比べようがないんですね。そういうものなんです。
どれが上でどれが下というものではないんです。その質の区別というのが私どうして悪いのか未だにわからない。それだけのことです。

TBSラジオ 荻上チキ・Session-22より引用


小生もふくめてバカというのは、ほんらいバカだからこそ、それを補填するために好奇心というものに忠実なのです。
だからこそ、本をよんだり、趣味にぼっとうしたりします。
そして生きていくなかでのできごとに、シンプルに怒りをおぼえたり、悲しんだり、そして笑ったりするのです。 
だけどひらきなおって悪意に忠実になると、理屈をすっとばして、ちょっとしたこざかしいやり方に手をだしてしまうのです。 

それが「差別はしないけど区別はする」という、物のいいかたなのです。
でも小ざかしいものは小ざかしいもので、大してかしこくはない。
その証拠に、バカは「差別はしないけど区別はする」ということばを発したあと、差別と区別の違いについて説明を求められても、答えられません。
あまりしつこく問いただすと、逆ギレするので注意が必要です。

要は差別も区別もいっしょなのです。
ただその場の逃げ口上で言っているだけのことなのですじつは。
学のないバカのサークルで広まった、いきる知恵のひとつなのです。
こういうのを知恵というのか、抵抗がありますが。

もうすこし曽野綾子というひとは、学のあるひとだと思っていました。
なんでだろうと考えたのですが、考えられることはひとつ。
小学校から大学まで付属校に通って、社会人経験もなく文壇に入ったひとって、きっとどこかが欠落しているのです。
そしてこのひとは、すごい女らしさというのにこだわるのですが、きっと文壇という特殊な世界で、自分の女らしさを武器に、他のひとの男らしさを盾にして生きてきたのでしょう。

すすんで盾になりたがる、ガツガツとした男はどこにでもいますから。
そういう盾に守られて、このひとはいろんなものを、上から目線で「別けへだてて」きたのです。
ただ、インターネットにおいて、いろんなひとが、いろんな考えを、自由に発表できるようになりましたから。
もはや文壇のなかの「なあなあサークル」だけでどうにかなる問題ではなくなってきました。

インターネットで意見を発表するひとに対しては、出版社もなにもできませんから。