KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

権力を盾にした林真理子の凶暴さを放置していいのか

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「お母さんがもっとしっかりしていたら、みすみす少年は死ぬことはなかったはず」
「ふだんから子どものことはかまってやらず、うちの中はぐちゃぐちゃ。そして恋人がいたという」

こんなことを天下の週刊文春の連載エッセイで書いた作家がいます。
週刊文春』(3月12日発売号)の林真理子氏の連載エッセイ「夜ふけのなわとび」を読んで卒倒した。「お母さん、お願い」と題されたエッセイは、被害者の母親をひたすら責め立てる内容だった。

http://bylines.news.yahoo.co.jp/takedasatetsu/20150313-00043794/ 
 「川崎中一少年凶悪殺人事件」については、マスコミ関係のおとなたちの、情け容赦ない私刑が横行しています。
週刊新潮は、犯人の少年の実名報道をおこない、それについてデヴィ夫人がメルマガで絶賛するということもありました。

いえるのは、子どもの凶悪犯罪がうんぬんの前に、メディアに登場する大の大人の思慮のなさがめだつということです。マスコミは売り上げのために、加害者どころか、被害者の家族の生活にまで、土足で踏みこんでいく。むかしはもっとマスコミ関係者には矜持というものがあったようにおもえます。

林真理子なんてほんとうに論外です。文壇だかなんだか知りませんが、なにを書いてもマスコミは守ってくれます。だあれも責めることはしません。さすが直木三十五賞の選考委員さまであります。四権のひとつに君臨する女王様の面目躍如といったところでしょうか。

じぶんの子どもを殺された親だったら、人に言われなくても、悔やんでいるのはあたりまえです。そういう親の悲しみを無視し、おのれのメシの種のために話のネタにする。そして追い打ちをかける。 それこそ矜持というものがないのかと言いたくもなります。

女手ひとつで子どもをやしなうこと、それたいしてしっかりしているもクソもないです。経験したこともないのに勝手に定義づけするなという話であります。そして母親が幸せを追い求めないかぎり、子どもを幸せにすることはできません。恋人がいて、いったい誰を不幸せにするといえるのでしょうか。

こんなものはまさに暴力であります。そしてこれもマスコミという四権のひとつを利用した私刑です。インターネット、そしてブログの役割というのは、こういう林真理子のような暴君の存在を俎上に載せ、問題提起することだと小生はかんがえております。