さいきん暴言を吐いても、けっして謝ろうとしない大人が増えました。と感じるのは、小生の気のせいでしょうか。曽野綾子氏も、差別と区別をもちだし、自己正当化ばかり。己の発言で誰かを傷つけたかもしれないという思いやりのかけらも見せませんでした。
そして百田氏も、
「同性とセックスしたいという願望を持つのは自由だと思うが、そういう人たちを変態と思うのも自由だと思う」とTwitterでつぶやいて、批判をまねくと、
http://news.livedoor.com/article/detail/9898246/
「昨日つぶやいた同性愛うんぬんのツィートは、思慮の欠いたツィートでした。削除します(原文ママ)」と言って削除しました。そりゃにんげんですから、思慮の欠いたことばのひとつやふたつ言うこともあります。けど、もし悪いとおもうならひとこと謝罪すればいいのです。少なくとも小生は、謝罪があったのならば、ネチネチそれ以上は責めません。
謝罪がないと、自分が批判をされてしまう結果になったことに思慮を欠いたと言ってるみたいに聞こえるのです。じゃあ人を傷つけたかもしれないということにたいしては、思慮はないのかと言いたくなります。人を傷つけることも厭わないというのなら、削除せずに批判を受けとめればいいのです。
変態と思うのは自由です。しかし、人を変態よばわりするのならば、相手の反論する自由を受けとめなければならないのです。己の自由は、人の自由を尊重して成り立つものです。自分は自由だけど、相手の自由は認めないというと、もうそこには自由はなくなります。抑圧が残るのみです。
さいごにひとつ、気になるツイートがあるのです。
昨日、一日でへんずりを10回連続した。10代並みのパワー!衰え知らずの回復力!(原文ママ)」シモネタかい!とつい言ってしまいました。おなじハゲとして、ひとさまにハゲは本当に絶倫であったと思われたくないのです!じぶんの中に欲望をしまっておけば、それは変態ではないのです。人前にさらけ出して初めて、変態と認定されるのです。
そういう意味で、百田先生は変態です。夜道にコート姿で女の人の前に出てきて、ホーラみてごらん♪と言いながらチンチンみせる変質者といっしょです。 「永遠のエロ」です。