KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

未来予想図を描くことのむずかしさ

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部屋のかたすみに、むかしの百科事典があります。学研こども百科という名前で、子どものころ持っていたものです。父親が学研の教材のセールスをやっていたので、こういう本がわが家にはいろいろとありました。詳しい発行年はわかりませんが、大阪万博の記事があるので、昭和46年ごろかと考えられます。

この事典のなかに興味深い話が書いてあるので、ちょっと紹介します。



不幸にして私たち日本人は、原子力の破壊力を多大な犠牲を代償として体得させられた唯一の国民です。したがって恐怖の対象としてのみ考えがちです。
ですが、人間のために平和的に利用する分野が無限にあるということをも知らねばなりません。
原子力発電や原子力船がすでに出現しています。将来は航空機や自動車にも、また宇宙での動力としても使われるでしょう。

これは、”原子力”という項に書いてあった一文です。誰が書いたかは不明ですが、おそらくすでに亡くなっているかたでしょう。しかしこれを書いているときは、まさか40年後日本に大きな震災があって、原発事故が起きるなんて思いもよらなかったでしょう。

きっと昭和46年あたりは、アポロ11号が月面着陸し、大阪万博もあって、科学的な分野にに大きな夢を抱いていた時代なのかもしれません。しかし21世紀の現在でも人類は月で生活はできていないし、平和的に利用しても原子力は人に災いをもたらしました。

写真の未来の自動車はどうなっているかというのも含めて、未来予想図を描くことは、ほんとうにむずかしいことだと考えさせられます。