KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

テレビのニュースで個人的見解は必要か

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きょうテレビ朝日報道ステーションで、おどろきの場面に遭遇しました。元経済産業省官僚で、番組にもよく出演していた古賀茂明氏が、放送中に自身の番組の降板について言及したからです。本来は、イエメンの情勢について解説するはずでした。どういった内容かは本人のツイッターを引用します。





まとめると、テレビ朝日と、古舘プロジェクトの意向で今日が最後ということになりました。これまで本当に多くの方に激励していただいたが、一方で菅官房長官をはじめとして、官邸のみなさんのバッシングを受けてきたといった内容です。

そこで古館さんが、今の話は承服できないといいます。それにたいして返す刀で、「古舘さんもその時におっしゃりました。『この件に関してはお役に立てなかった。本当に申し訳ない』と。全部録音させていただきましたので、そこまで言われるなら全て(データを)出させていただきます」と古賀さんが言います。

こんなかんじなのですが、この古賀さんというひとは番組のなかでも、「I am not Abe」 など現政権に批判的なスタンスでものを言ってきたわけです。けっこう個人的見解を解説に織り交ぜるひとだったのであります。そこで感じたのが、はたしてニュースの解説に個人的見解が必要なのかということなのです。

べつに現政権に肩入れするつもりはさらさらありません。ただ、個人的見解を解説するひとが言うことによって、かえって権力がニュースに介入しやすくなってしまうと感じるのです。それに解説は、シンプルにわかりやすくしたほうがいいのですよ実際。

ニュースの肝は、記者とカメラマンの取材力です。起こった事件を可視化させたら、あとは視聴者の感じるがままにまかせればいいのだし、個人的見解はインターネットで言えばいいのです。そのぶんテレビはネットにはない取材力を生かしてもっといろんなニュースを伝えるべきなのです。 古賀さんの無念さはわかりますけど。

まあしかし、それを言ってしまうと、報道ステーションの存在じたい否定してしまうのですが。時を同じくして降板した、NHKのニュースウォッチ9の大越キャスターなんかは、実際に福島第一原発に防護服を着て取材するなど、取材力のある人だったと今にして思います。