小生が生まれたころ、ときの首相田中角栄さんが、日本列島改造論というプランをたちあげた。人とカネとものの流れを巨大都市から地方に逆流させる “地方分散” を推進するということで、山にトンネルを作っては、地方から大都市への流通をよくさせました。
物流がよくなればひとのながれもよくなります。そのおかげで、おおくの若者は大都市をめざし、かえって地方の活力をなくしていったという負の面があらわれます。それはいまだに尾を引きずっているともいえます。 しかし、長野県は長野新幹線が開通するまで、”東京からいちばんとおい”といわれていました。
そういう隔離されたところでしたから、そういう場所なりの独特な風習があったそうです。伊那のほうでは、高い山にかこまれた谷間のまちで、耕地面積が少なかったため、家長になる長男いがいは他家に嫁ぐか婿養子に出ることでしか結婚できないという集落がありました。
それどころか、家長である長男の家で、無償で働かされたのです。また家での身分も家長の嫁や子よりも低かったのだそうです。つまりはよっぽど余裕があるところでないかぎり分家は許されなかったということになります。そういうひとたちを「おじろく(男)・おばさ(女)」といいました。
そんな境遇におかれて、おじろくやおばさは不満はなかったのでしょうか。しかし、
「他家へ行くのは嫌いであった。親しくもならなかった。話も別にしなかった。面白いこと、楽しい思い出もなかった」などと話していたことが、記録に残っています。
「人に会うのは嫌だ、話しかけられるのも嫌だ、私はばかだから」
「自分の家が一番よい、よそへ行っても何もできない、働いてばかりいてばからしいとは思わないし不平もない」
この発言もじつは、おじろく・おばさに話しかけても、コミュニケーション障害のためか無視されてしまうので、催眠鎮静剤を投与して面接した結果なのだそうです。なにゆえ不満がなかったのでしょうか。それは物心つくころにはそのように教育していたというのがあります。
そういう状況におかれれば、そういう風に順応するしかなかったわけです。家で無償で働き、家以外のひととは誰とも交流せずに、ただただ生きた。そういうなかで、精神的におかしくなるのも当然です。そんなおじろく・おばさは昭和40年代まで存在していたそうです。