KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

神田うのという卑怯の大売り出しバーゲン女

うのは「経済的に余裕のない人(男性)は卑屈な人が多い。女性にすごい対抗意識を燃やしてくる」という“うの理論”も展開していた。

うの ブログ炎上に「意地悪」 世間からの“文句”警戒 

だれがなんといおうが、圧力をかけようが、神田うのというひとは卑怯なのである。この手の意見に対してこのひとは、裏にかくれてだれかに守ってもらう気まんまんなのはわかっている。けれどもあえて書くのである。


うのはわかっているのだ。 こういうことを”大の男”が書けば、それに対して経済的に余裕のある”大の男”が代わりに戦ってくれると。だからわざと経済的な余裕うんぬんで男をわけて語っているのだ。じつは発言権ということについて、経済的余裕のない男性がいちばん弱いというのもわかっている。


しかしじつはほんらい、うのにたいする嫌悪感というのは生理的嫌悪感なのである。生理的嫌悪感というのは、性別関係なしにある。生理的にうのが嫌いという女性もそれこそたくさん存在するのである。しかしうのの場合、女性は自分のプロデュースする商品の商売相手なので、批判はしない。


そこがうのの卑怯なところなのである。
そしておのれが女性であるからこそ、その卑怯さは許されるとおもっているところが、うののイタいところだ。 たしかに許してもらっているのだが、ただただイタい。


たしかにうのは、金持ちのボンボンと結婚し、そのボンボンよりも力があることをアピールし、なおかつ同性に媚び、有力な異性の庇護を受けることで、己のちからをアピールしているわけだが。それでじぶんの卑怯さを隠せるかどうかはまた別問題なのである。


意地が悪いのは実はおまえだ、うの。