KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

大泉洋のクラスメートのような大笑い

5月17日のヨルタモリのゲストは大泉洋だった。今日も大泉洋はよく笑っていた。いつも彼は豪快に笑っている。自分が笑わせる以上に、自分が笑っていた。じつはこれ、トークでは大事なことだよなあと、おもうのである。


トークというのは、空気をつくることが大事なのだ。おもしろいことにたいして笑うことは、言ったひとを乗せるし、観ているひとも笑いやすくする。 いまおもしろいことになっているという空気にさせるのだ。


これも一種のリアクション芸といっていいだろう。相手のいったことにたいして笑うのは、負けっぽくみえてしまいがちだが、トークに参加しているにんげんがみな、自分も自分もと笑いをとろうとしてしまったら、収拾がつかなくなるし、かえって空気を収縮させてしまう。


大泉洋というひとは、水曜どうでしょうのころから一貫している。あいてがミスターであろうが、藤村ディレクターであろうが、おもしろいことをやったら豪快に笑う。過剰なツッコミはしない。こういうひとって、学校のクラスメートにもいたはずだ。


そして彼自身もやることなすことがおもしろいのだから、もう空気は温まりに温まっている。水曜どうでしょうのばあいは、場所が車の中であったり、ホテルや旅館の一室であったりで密室性がたかいので、温まり具合はさらにヒートアップする。


じぶんもその場に参加している気になってくるぐらいだ。大泉洋が発する「クラスメートの大笑い」は、テレビとお茶の間という境界線をたくみに取りはずすのであった。そう考えると、水曜どうでしょうという番組は、実にすごい。


ちなみにヨルタモリという番組も、バーという一見狭いとおもえるスペースにゲストもふくめて5人いる。水曜どうでしょうの登場人物4人と人数的には変わらない。ということは、大泉洋にとっておあつらえ向きな空間といえる。おもしろくないわけがなかったのだ。