KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

Twitterは基本議論するのには合わない

このごろのTwitterでの一連のやりとりにかんして、勘違いしているひとがいるのだが、小生はTwitterにおいて、ブロックすることは自由だとおもっている。理由はなにか。こたえは単純だ。たんにTwitterがそういう仕様になっているからである。


ブロックするのは自由だが、それを話のたねにするのも自由なのである。べつにこちらをブロックするなとはひとこともいっていないのだ。そもそもひとの考えかたなり趣味趣向にかんしてケチをつけるにんげんなんてブロックされてとうぜんなのである。だってうざったいでしょ。


ミクシィだってそう。そういう仕様になっているのだから、ブロックするのは自由なのである。議論になるなら議論するが、これは泥仕合になるなとかんじたら、ふつうにブロックする。しごく当然なはなしだ。とくにTwitterでは泥仕合はしたくない。それはなぜか。


その泥仕合の模様がフォローしてくれるひとのタイムラインにのってしまうからである。そういうのを嫌うひとというのは存在するので、そういうひとからリムーブされてしまうのもなんだし。ただTwitterにかんしてはどんな相手であってもブロックしないつもりである。


勝手に言っている分には、フォローしてくれているひとのタイムラインには載らないし、むしろそういう相手のフォロワーがみてくれる可能性があるから。無視するけど、それでも書きたいならむしろ好きなことをを書けばいいのである。