KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

泥仕合について

もう少しくわしく書いてみたいとおもう。まあこちらが書いていることについて、異論があるのはとうぜんなことなのだが、なかには、こちらのことばじりだけをとらえて言ってくるのがいる。こういうのがうざったいのである。


じぶんがつっこまれるのが嫌なのだろうけれども、まず相手への攻撃ありきというにんげんの発言は、発言そのものをする権利はあっても、こちらが読む義務はまったくない。なぜか。そんなものを読んでもこちらのためになることはひとつもないからだ。


けっきょくこちらを攻撃するありきでしかないので、相手にするならば、こちらもことばじりをとらえて攻撃するしかないのである。それこそはまさに泥仕合であり、得手勝手な正義感に酔いしれている相手のオナニーを手伝っているだけになってしまうのだ。まったくもって生産性がない。


なので反応がなかったら、ああハズレだとおもって、静かにパンツを履いたほうがいい。以上。


どろ‐じあい〔‐じあひ〕【泥仕合】

〔泥にまみれて争うことから〕 互いに相手の欠点・失敗・秘密などを言い立てて非難しあう醜い争い。 「 -を演ずる」