したがって、オスは役立たずな存在などではなく、彼らが伴侶を見付けるための競争は、種の遺伝的優位性を保つために必要不可欠なのだ。
オスの存在理由、実験で証明される
要はかませ犬、もしくは”こいつは弱者である”とさらし者にされることに、存在価値があるということなのであろう。もちろん小生だってそういう立場である。そこを自覚しないと、弱者として自由に生きることはできず、抑圧に苦しむことになる。
弱者として自由に生きることは、にんげんに与えられた特権である。戦いを放棄する自由もある。だがそれでも挑発してくる男は存在する。戦いをみたくて、それを煽る女というのも存在する。宗教だってどの聖典でもけっこう戦いを煽っていたりする。もう抑圧だらけである。
しかしその抑圧から解きはなたれたとき、アートというものが生まれたりする。レオナルド・ダ・ヴィンチにしろ、ミケランジェロにしろ、遺伝子は残さなかったけれども、すばらしいアートは残った。
戦争というものは、まさに種の競争そのものである。国と国だけではない。国内でも戦地に行かされる男とそうでない男に明確に分けられる。戦争をやりたいにんげんというのは、要は自分が優位なにんげんであると主張しているだけにすぎないのだ。
そもそも男という生き物が役立つかどうかという今回のテーマそのものが、ほんとうはどうでもいいはなしなのだ。にんげんはかならず死ぬのだから、進化の最終形態なんて見られないし。だったら目の前にある自由を追い求めるしかないのだ。