KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

長谷川豊大先生に決定的に欠けている視点

元少年Aが出版した『絶歌』という本に対して、大変なバッシングが起きている。
もちろんだと思うし、何よりそうあるべきだ。私自身、もともと少年犯罪に対して厳しい態度をとってきた人間なので、発売翌日には本屋に走り、このブログ上で徹底的に叩きのめしてやろうと思ってこの本を購入してきた。 要は資料として、だ。

しかし、前回のブログにも示したように、実際に読んでみると、考えていた内容と違った。読めば読むほど、これは、ひょっとしたら意義のあるものなのではないか?という考えが頭をよぎり、(この本は2部構成になっているのだが)第2部を読み終えた段階で、なぜ批判を覚悟で…と言うよりも、批判されることを分かっていたにもかかわらず、大田出版が出版に踏みきったのかも、少し理解できた気がした。

『絶歌』を批判する人に決定的に欠けている視点 



逆バリってやはり注目される。それはわかる。そもそも深く考えず、やじ馬根性で買った人なんてのはわざわざブログやSNSに書いたりしないので、ネット上には否定意見ばかりがおのずと多くなる。


そうなってくると、長谷川豊大先生みたいな、知名度のあるひとが逆バリするとえらい目立つ。 そこもまたひとつのねらいだったのかもしれない。”決定的に欠けている”までいわれたら、もう火の粉をまきあげ天までこがせってぐらいのいきおいになる。


ただいくつか指摘しておきたいことがある。

「長谷川は、自分の子供たちが被害にあったら同じように言えるのか?」

(中略)

「あなた方は、加害者になったときに、同じように質問してくるのか?」 答えていただきたい。

私のブログに汚い言葉でいろいろ書いてきた人間、全員答えていただきたい。

もう一度聞こう。答えていただきたい。 「あなた方は、『加害者の側になる可能性がある』のだが、それは考えたことがないのか?」
 
そうなのだ。にんげんなのだから加害者になる可能性だって無いとはいえない。だからこそにんげんは、加害者とならないように、ときには歯を食いしばって耐えて毎日生きている。それは未成年だろうが関係ない。むしろ加害者でも被害者でもないから、このテーマについて語れる。


ただひとついえるのは、加害は自分の意志を介在するが、被害は自分の意志とは関係なくこうむる。並列には語れない。そういうことだ。


もう、二度と同じような悲劇を繰り返させないでほしい。この一点だ。これは全員が同じことを言うのだ。

犯人を恨んでしまう人も多い。生きる気力を失ってしまうことも多い。

だが、何を言っても、もう亡くなった人は帰ってこない。被害者家族を救うべく、我々がするべきことは一つだ。 「同じような悲劇を繰り返させないこと」だ。


これな。語弊を恐れずにいわせてもらうなら、被害者の家族は、

「二度と同じような悲劇を繰り返してほしくない」

というしかないのだ。でもこんな”言葉に出る言葉”より、”言葉に出せない想い”のほうがわれわれには想像もつかないぐらいに大きい。じっさいもんだい他人に二度目が起きようが、そんなことは被害者家族にとってどうでもいいのだ極端なはなし。


それを被害者家族は 「二度と同じような悲劇を繰り返してほしくない」と思って当たり前としてしまうのは、無神経にもほどがあるというはなしなのだ。


印税で儲けようとしている、という想像力豊かな人間が多数いるようだが、それもこの本を読めば、ちゃんと書いてある。この元少年Aは金のためにこの本を書いたんじゃない。いや、むしろ、金に執着がとにかく無い方の人間だ。ご遺族への送金か、迷惑をかけた家族への送金にするのだろう。とにかく儲けたくて書いたわけじゃない。それは明確に書いてある。
 

これも本を出すうえで、そう書くしかないだろうとしかいえない。そもそも大先生の主張どおり”モルモットにする”ならば、医学の研究書としてちゃんと監修された本にするべきだとおもうし、少年Aもすすんでモルモットになればよかったのだ。


まあ出してしまった以上、ほんとうにご遺族そして迷惑をかけた家族への送金に使われればいいのだけれど。