タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない。

みんなが幸せになればいいなんていう人間は政治家になれない




ちょっとまえだが、橋下徹大阪市長についてのニュース動画である。私学助成金の削減について、私学にかよう高校生と議論している。とりあえずこの動画の題名をつけたやつのセンスが嫌だね。元弁護士の知事と、高校生との議論なんてはじめから勝負が決まっているのだから。それを論破とかいって囃したてるのはどうか。


それでも議論の場に出てきて、率直に語った高校生たちはえらい。ある意味大人たちにさらし者にされたようなかっこうだけれども、こういう理不尽を経験するのも、また勉強だったりするから。動画のコメント欄をみていても、努力して公立に入れないのが悪いとか書いているのがいるけど。


でもほんとうに努力がいるのは、学校を出てからだから。そんなこといいつつ、小生もいえた義理ではないのだが。高校は公立だったけれども、まあそれからの努力が足りない足りない。でも負けつづけてもとりあえずメシが食えているからいい。そう考えている。 死なないで生きることも努力のひとつ。


それにしても、この年代の子は、自由に高校を選べないで、先生のいうとおりの学校に受験をさせられるのだろうか。公立の学校って、行くのはそんなに難しい?もしそうだったら、それは大人たちの怠慢だろう。なんでも自己責任にすりゃいいってもんじゃない。それっていずれは社会にはね返ってくるぞ弊害が。


自己責任といってしまうのは、ある意味で持てる者の欲の開放である。実際は親が裕福か否かなど、自己責任
とはいえないことは少なからずあるわけで。それを自己責任のひとことで片づけるのは、けっきょく持てる者の欲をさらけ出しているにすぎないのだ。


だってそうだろう。持てる者というのは、持たざる者を作るからこそ、持てるわけで。ときには卑怯なまねをしてでも誰かを蹴落として持てる者になるわけだ。それを勝ったものこそ正義としたら、ましてや勝ったものの子どもは恵みを享受していいし、負けたものの子どもは自己責任などとしたら、最終的には努力でなく暴力を生む。


資本主義だって機能しなくなる。資本主義も共産主義もそうだけど、努力するから機能する。ハナっからダメだとわかっていたら努力なんてしないから。だからこそ子どもたちのために機会の平等をつくる努力を、おとなは惜しんではいけないわけだ。自己責任で終わらせるのは、それこそ責任放棄なわけ。


あと気になったのが、橋下徹は、だったらじぶんが政治家になって変えればいいっていうけど、そんなものは理想論だ。政治家というのは不平等をつくらないとなれない。だれがなっても不平等をつくるものだ。みんな平等になんていっているにんげんは選挙で落とされる。政治家にはなれない。


支持者をつくるには、利権を与えるか、ウソでもいいから利権を与える約束をするかのどっちかでしかない。