KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

【プロ嫌わレストの流儀】雑魚な自分から独立する

今日から、プロきらわれ者の活動の一環として、エッセイを連載していきたいと思います。ぜひご一読いただければ幸いです。このブログを始めのころから読んでいただいている人はわかるとおもうのですが、なかなか文体が定まらないのです。ですが、このエッセイに関しては、ですます調でいきたいと考えています。


みなさん。“人気者”の対極ってなんだとおもわれますか?きらわれ者でしょうか。小生はちがうと考えています。人気者の反対は、雑魚なやつだとおもっています。人気者本人はおろか、その周りのにんげんにすら名前を覚えてもらえない。


それでも人気者や、その周りのにんげんについていかなければダメだという強迫観念に押されて生きている。そして結局は、他人の踏み台にされてしまう。人気者よりは身分は低いけど、その周りにいるひととは平等だとおもっていたのに、なぜかいつの間にか序列ができてしまっている。


そういうひとを小生は雑魚だと思っています。そしてきらわれ者というのは、そこから独立したにんげんだとも思っています。結局は、ひとりで多数のにんげんに、そっちのほうが多数派かもしれないが、じぶんはそれに与しないという意思表示ができるかどうかなのだとおもうのです。


そして序列というものから自由になることだともかんがえます。べつにふだんの生活で、おもてに出さなくていいのです。社会生活のなかで、じぶんのちからの無さをふと感じたときに、陰でひとと比べずに、序列からフリーになること。ときにそれは協調性がないと言われてしまいますが。


そう。きらわれ者って、協調性がないのです。