KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

めざせナショナル(電池編)

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おもいおこせば、むかしは電池といえば赤かったのだ。いまや量販店オリジナルの電池などもあって、群雄割拠な状況になってはいるが。いまみたいにコンビニがないころは、電池の自動販売機もあった。


どんな田舎であっても、電気屋というのはあって、お店は閉まっていても急を要するひとのために、自動販売機は明かりをつけて待っていてくれた。 田舎にある自動販売機というのは、周りが暗いものだからなんか目立つのだ。


ちなみにこれまた急を要するひとのために、コンドームの自動販売機というのもあった。”明るい家族計画”と、きちんと計画って書いてあるのに、急を要するというのはどういうことなのか書いているじぶんが自問自答しているのだが。