KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

聖徳太子のように映画を観る男

映画コメンテーターの有村昆さんは、多いときには1日14本の映画を観るという。1日14本。一本2時間強として、28時間・・・あれ?物理的には無理なようにおもえるのだが。これにはタネがあるらしい。


本人いわく、3つのモニターで同時に3本観るのだ。この方法はあの水野晴郎さん直伝なのだとか。不器用な小生には不可能である。もしやったとしても、3つのうちひとつ、見入ってしまうような映画があったら、ほかのふたつには目がいかないであろう。


しかし映画評論家たるもの、ときには酷評する映画もある。酷評されたほうにしてみたら、時間をかけて苦労してつくった作品を、映画を同時に3本みるようなにんげんに衆人環視のところでやられるのだからたまったものではない。


紀里谷は、共演者の有村昆が当時寄せた「映画として2時間もたない」
というコメントを紹介。
有村が「予告編で見るとすごいなと思うけど、2時間になったときに主役の人たちの演説大会が始まる。映画の常識からすると、言いたいことは言わないで、セリフとセリフの間に込めたりする。それを(紀里谷)先生の場合は全部言っちゃうんですよ。だから、教科書的な、押し付けがましい感じになっちゃう」と補足する。


そう。『CASSHERN』の紀里谷和明氏もそのうちのひとりである。まあ紀里谷のほうもやっていることはたいがいなのだが。有村にしてもやはり3つ同時にみてもツッコミどころは外さないといったところか。やはり作り手と評論家のバトルというのは字だけ読んでいてもおもしろい。


最後には自らの言動を反省し、“いまだからわかること”として「映画は皆に支えられながら作っている。周囲の協力があるから、自分の仕事は成立する」と述べたが、結論として「『批判をすること』より、『作ること』のほうが100億倍難しい」と、有村を含む批評家全般への恨みを最後まで忘れていなかった。
 

これも反省しているかのようにみえて、有村もふくめた映画業界界隈をdisっているようにも読めなくもない。制作側も評論家も協力という名のなあなあな関係でできているというふうに。だからこそ、有村のほうも、3本映画を同時にみて、評論を量産しているのであろう。けっきょく最後はビジネスだもの。ねえ。