”不戦の誓い”なんて所詮方便
不戦の誓いをしないで、靖国参拝で何を祈ろうというのか http://t.co/7peyPmEp4S #blogos
— 明智半平太 (@hanpeita_akechi) 2014, 1月 12
安倍総理の靖国参拝は、不戦の誓いを新たにするための参拝だったから中国や韓国が何と批判しようと、その批判を受け流すことが出来た。
しかし、靖国参拝から不戦の誓いを外してしまえば、うっかりすると必勝祈願になってしまいかねない。
靖国神社については先日も書いたが、
靖国神社というのは不戦の誓いをするところではない
これは裏を返せば、”不戦の誓い”という言葉が、中国や韓国の批判を受け流すためのツールに過ぎないということだ。
2014年になって、静かに本音を吐露したというところだろう。
この方も自民党の議員であったのに、本当に不戦の誓いをするところだと思っていたのであろうか。
人間は差別する生き物であり、戦争はそのツールだ
一度ここで私の戦争というものに対する考えを記しておきたい。
戦争というのは、国と国の戦いである以前に、国内における身分を分ける争いなのだ。
前線に行かせる人間と行かされる人間の仕分けから戦いは始まる。
戦争をやろうという人間にみずから前線に立とうとする人間はいない。
己の強さを見せつける為にいかに自分は前線に立たないでいい人間かを誇示するために戦争をやろうとするのだ。
男は少数でも女がたくさんいれば子孫を残す事に支障はない。
だから自分より下の男を戦わせ死なせる為に戦争というのは存在するのである。
英霊のためと言えば聞こえはいいが
その理屈でいえば、靖国に奉られている英霊というのは、権力側にいる身分の高い人間に忠実に従い散っていった人たちの象徴なのである。
英霊のために祈るといえば聞こえはいいが、つまるところは現代社会に生きる下々の男達に、
「お前らも見習って俺たちの盾になって死ねよ」
って言ってるだけの事なのである。
それでは失敬。