KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

テレビの画面には映らないこと



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表現者で在りつづけるということ
皆さんにわかってほしいことがある。
よくドラマ、特に刑事物にあるパターン。
犯人に殺された被害者なのだけれども、暴力なんか奮うどうしようもない最低な男が出てくる。
殺されてもしょうがないと視聴者が思ってしまうような役。
犯人役がけっこう知名度のある女優とかだったりする。
そういう捨て駒みたいな役をテレビで演じる俳優さんに、力のある人がいたりする。
実は劇団を主宰していて、すごい脚本を書いちゃう人とかが。
本当にいるのだ信じてほしい。
テレビというのは一つの指標であり、そういう端役をやっている人はそれなりの実力でしかないと思う人もいるだろう。
でもじゃあ今のテレビドラマで主役張る人と演技力に差があるのかというと一概にそうは言えないと思う。
もちろん見た目というのは大事だし、華があるかないかも重要である。
またバックにあるものの大小も関係してくるし。
ただ、そういうテレビの端役をしている人にはその人なりの裏付けがあるし、それを読み取るのも一つの面白さだと私は考えている。
表現し続けることって、華やかなる舞台の隅っこにいても己の道を探求しつづけることなんじゃないかなあ。


それじゃ失敬。





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(2009/12/11)
荒川 弘

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