KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

偏屈な正義感で「明日、ママがいない」を観ても結局評価は偏るだけ



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私はこの手の”言葉の狩人”たちの意見を読むたび言いたくなります。

『明日、ママがいない』を「最後まで見てほしい」と言ったアナタへ 最後まで見たけど分からないのですが…より引用。

当初、日本テレビ側も社長が記者会見で「最後まで見てほしい」と発言していた。

さて、最後まで見てみました。
最後まで見てみたが、私の問題意識は当初の感想と何も変わらなかったことだけは記しておきたい。

番組の感想は人それぞれなので、私の感想を詳しく記しても意味がないだろう。後でドラマに詳しい批評家の声をお伝えしたい。

当初から指摘するように、あのドラマの第1回2回には児童養護施設に今いる子どもたちを傷つけてしまうほどの「加害性」があったことは事実だ。

児童虐待などのトラウマがある子どもたちがドラマでそうした体験のフラッシュバックを起こし、リストカットにいたったケースが複数あったことも全国児童養護施設協議会や私自身の調査でも確かなことだ。



あなたの偏屈な正義感で子どもは救えませんよと。

調査したというのなら、視聴者でもある我々に提示してほしい。
はたしてリストカットにいたるまでにこのドラマがどのような因果関係があるのか。
リストカットした子は常習なのかそれとも初めてリストカットをしたのかによっても議論はまったく違ってきます。
ただ大きな声でリストカットしたと連呼しても何の意味も為さないのです。
ドラマを放送中止にした。
じゃあそのドラマを中止にして振り返った現実の世界はドラマよりも優しい世界なのでしょうか。
そんなことは無いんですよ。
臭い物にふたをしたってリストカットする子はリストカットするのです。
それをことさら「明日、ママがいない」というドラマに全責任を負わすには無理があります。
原因はもっと根本的なところにあるのです。
それもそう簡単に我々が理解できるものではない計り知ることのできない闇のような原因が。
だからといって諦めずに傍らにいて、私はここにいると言ってあげるしかリストカットする子の痛みを和らげる方法は無いのです。

「ドラマの脚本作りの段階でプロデューサーが信念と覚悟を持ってその題材を選んでいたのかどうかが伝わってこない。いったい何を描きたかったのかと思わざるえない」

最終回まで見終わって、私もまったく同じ感想を持つ。

制作者側の「信念」と「覚悟」が感じられなかった。


はっきり言いましょう。

そんな「信念」と「覚悟」が透けて簡単に見えるようなドラマは駄作です。

はたしてBPOとして、この問題を扱うのか。


これに関しては見送りになった模様です。
でもこういう問題が起きたときに、開かれた議論する場があったらいいと思うんですよね。
圧力に屈しない議論の場が。
テレビが面白くなくなったと言われる一つの要因は、開かれた議論の場がなく、裏で圧力をかける勢力がいて、そういう勢力に対して物を言わないで自粛することしかできない制作側の問題があると私は思います。

それじゃ失敬。

この国に言論の自由はあるのか―表現・メディア規制が問いかけるもの (岩波ブックレット (No.630))この国に言論の自由はあるのか―表現・メディア規制が問いかけるもの (岩波ブックレット (No.630))
(2004/08/04)
田島 泰彦

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