KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし



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いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし
いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし
いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし
いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし
いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし
いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし
いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし
いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし
いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし
いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし
いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし
いなりずしいなりずしいなりずしいなりずしいなりずし



昔、セブンイレブンのCMで、若い女性がスケッチブックにいなりずしと書き出したと思ったら、突然外に出て行き残されたスケッチブック一面にいなりずしという言葉がぎっしり書かれていたというのがあった。
いなりずしは無性に食べたくなる時がある。

回転寿司なんかに行くと、どの皿も100円だったりして、そういうときは見向きもされなくなるいなりずし。
いや、見向きはしているのだ。
すまんと思いつつ、男はマグロの皿に手を伸ばす。
いなりずしは日陰の女なのである。
しかし普段の生活のなかで、普通の作業をしているとき、突然脳裏に浮かんできたりする。

突然だが、夜の駅そば屋に行って自動券売機を見ると、いつもいなりずしが売り切れているのはなぜだろう。
別注文のわかめをトッピングしたかき揚げそばといなりずしはベストカップルだというのに。
そばだけをたぐり、汁を飲み干しても何か物足りなさを感じ、置かれた丼をチラリと見る。
カウンターの上に置かれたショーウィンドウはやはり空っぽだ。
まるで私の心の中のように。

それじゃ失敬。
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