もしかしたら、自分のことを好意的に見てくれているのかなって考える。
でも実際にむこうは、あの人いつも私の方を見ている怖いわっていう意味で見ていたりするのだ。
自分という人間は、自分が思っている以上に、人に嫌われているものだったりする。
それは私独自の見方なのかもしれない。
本当にどんなものなのか、他人になったことがないのでわからない。
今、養老孟司先生の「死の壁」という本を読んでいる。
死の壁 (新潮新書) (2004/04/16) 養老 孟司 商品詳細を見る |
その本の中に、一人称の死体、二人称の死体、三人称の死体という話が出てくる。
すべての詳しい説明はまた次回に譲るとして、今回は一人称の死体の話をしたい。
一人称の死体とはつまり「私自身の死体」である。
私は私の死体を見ることは出来ない。
生きている今はもちろんのこと、死んだとしても見られるかというと、見られない可能性が高いと現時点では考えている。
つまりたくさんの人に看取られて死のうが、孤独のうちに腐乱死体になってしまおうが、死んでしまえば関係無いということだ。
そう開き直るしかない。
孤独であろうが、人間は必ず死ぬのだから。
”腐乱死体になっても関係無い”なんて後片付けする人の身にもなってみろと言われるかもしれない。
ごもっともな話であるが、現時点でどういう死に方をするか皆目見当もつかないので、今ここで、
もしそうなったらごめんなさい。
と言うしかない。
それじゃ失敬。
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