KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

20年前と今のテレビ



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CS日テレで猿岩石のユーラシア大陸ヒッチハイクのアジア編をまとめて放送するというので録画しておいた。
あくまでヒッチハイクを観るのが目的であったのだが、その他のコーナーが当時の時代を反映していて面白かった。
写真は、「豪邸でウンコをしたい」の企画で、ちゃんとウンコが出るように香港にいって色んな下剤を飲みまくった松村さん。
すぐさま日本に帰ってきて成田から東京の豪邸に向かったはいいけれども高速道路が渋滞で便意が限界になっている。
ティッシュの箱を乱暴にこじ開けそこでウンコをしようとしている松ちゃんである。
未遂で終わったが、止めるスタッフとのやり取りに爆笑してしまった。
これが放映されたのが、1996年。
約20年前である。
今じゃこういうのは恐らく地上波で放送できないであろう。
1996年か。
たけしのお笑いウルトラクイズが終焉をむかえた年でもあるな。

私はテレビが面白くなくなったと言われるのは”規制”のせいだと思っている。
”面白くない”ではなく”面白くなくなったと言われる”で、その二つはあくまで別だ。
私はテレビには可能性があると思っているし、傍観する側でなくあくまで作る側の視点で見たいのでそう書く。
”規制”のやっかいなところは、明文化されているわけではなく、無言の圧力として存在するところだ。
だからテレビが規制に敏感になるのもテレビ局の自己責任になっている。
日本人の娯楽が多様になったのと合わせて、圧力団体から市井の若者までテレビにケチをつけるようになって、俺らの言うことを聞かないとスポンサーに圧力かけるぞと平気で言うようになってからテレビは”面白くなくなった”と言われるようになったのだ。
制作側もそこは表現者として戦わないといけないのだが、”無言の圧力”と争うのは面倒ということで避けてきた。
そうした方がスムーズに制作できると考えたのかもしれないが、実際はこの20年足らずでジリジリとつくる自由が狭まってしまった。

またこういう事を書くと色んなところで噛みつかれるんだろうな。
まあでもしょうがない。
私がそう思っているのは事実だし。

それじゃ失敬
足跡帳に一言残す


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