KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

純次さんと広瀬くん

ワタクシのなかでの高田純次さんの思い出として、けっして欠かすことができないのが、「天才たけしの元気が出るテレビ」です。この番組が放送されていた1985年からの10年あまりは、高田純次の第一期黄金時代といえます。


日曜日夜8時、4チャンネルにあわせると、ブラウン管には傍若無人にふるまう純次が映しだされていました。ソウルの女子大生に処女かどうか聞いたり、競艇場にいるパンチパーマのおっさんに失礼な質問をしたり、いまでは考えられないことを彼はやってくれました。 


でもやはりいちばん好きだったのは、「勉強して東大に入ろうね会」でした。メンバーのなかに広瀬伸哉さんというおもしろいキャラのひとがいて、彼が東大に受かるようにテレビのまえで応援していました。 じぶんはいっつも学校サボっているくせに、ひとのこと応援するもへったくれもないのですが。


初年は不合格。再チャレンジしたのですが、ざんねんながらつぎの年も不合格でした。とくに2回めのときは、ほんとうにがんばっていて、本人も自信まんまんだったのです。けれども落ちてしまいました。どこかですこしだけ油断があったのかもしれません。まさに好事魔多しといったところです。


2回めの合格発表のとき、不合格を知った広瀬くんは泣き崩れてしまいました。そのときに寄り添ったのが純次さんだったのです。広瀬くんの肩に手を置き、純次さんもいっしょに泣いていたのです。かれの泣いているすがたを観たのは、あとにもさきにもこのときだけでした。


そしてワタクシもテレビのまえで泣いていました。まさにおなじ場所において、いっしょに3人で泣いているかのように。広瀬くんはこれをもって東大進学をあきらめ、慶応大学に進学しました。その後しばらくして、同番組でクラブでナンパしまくっていると聞いたときは、てめー俺の涙をかえせー!状態でしたが。(デマと判明)


広瀬くんは、その後起業し社長になったのですが、残念なことに、スキー中の事故でお亡くなりになりました。訃報をはじめて聞いたとき、強い衝撃をうけたのをいまでもおぼえています。あんなにがんばっていたヒトが、こんなにあっけなく人生の幕を閉じるなんてと。


でも広瀬くんと、それを見守る純次さんの姿は、いまでも青春の記憶として残っています。


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純次さんはどうか長生きしてください。