前衛アングラ芸人・きぐるいツネちゃん(明智半平太)のブログ「昭和50年代少年のKOTOBASM」

団塊ジュニア世代とも、悲劇の世代ともいわれる昭和48年生まれが管理する、昭和ノスタルジーといまを語るblog。僕たちが生きてきた証のことば。それはイズムそのものである。(明智半平太)

小籔千豊の「やりたくないことをやるのが社会や」発言は間違いですか?







小籔は「夢は絶対に叶わへん」「やりたくないことをやるのが社会や」などと語り、「これが真実」「小籔の話は気持ちいい」と絶賛されたことがある。
でも、当の小藪自身は夢だった芸人となり、その道で食っているのだ。ようは“自分たちはエエけどお前らはアカンよ”と言っているだけなのである。そんな発言をありがたがって「大人の意見」などと誉めそやしているのだから、おめでたいとしか言いようがない。

小藪千豊がドヤ顔で「民主主義より“ライト独裁”がいい」発言! 坂上忍に「安倍政権はもう独裁」と反論された 


このヒト特有のシニカルさみたいなのはあるかもしれませんが、発言じたい間違ってはいません。努力すれば夢はかなうというのは、ポジティブな発言のようで、けっこう残酷な言葉なのですよね実は。


じゃあ夢を叶えられなかったら、そのヒトは努力が足りなかったのか、ダメなヒトなのかといったら、違うではないですか。けれども、”努力すれば夢はかなう”と煽ってセミナーとかやってお金を取っているヒトにとっては、「夢がかなわなかったヒト=努力しなかったヒト」なのです。 


しかし”夢が叶ったヒト”がじゃあ努力だけでそうなったかというと、単純にそうともいえないわけです。それはその時々のヒトとの出会いで、おもいがけないチャンスを拾ったという場合もあるのです。実力さえあればいいというものでもないのです。


そもそも実力って、簡単に数値にして可視化できることってできません。それを安直に表層だけをなぞって数値にし値踏みするのが、ニンゲンなのですが。でもそれが正しいかというと疑問ですよね。


それに”夢が叶った”ようにみえて、その”夢”で実際にメシを食うとなった場合、じつは結構やりたくないことをやっていたりするものなのです。自分のやりたいようにやってメシを食うのが夢だとしたら、その夢はそれこそ寝て見るような夢であり幻なのです。


やはりやりたくないことをやるのが社会であり、それが現実なのです。でもそれが単なる悲劇かというとそうでもなく、人の助けになったりもなるわけでしょう。あとはなんとかメシが食えて、雨風しのげることができれば、まずは御の字ということなのですわ。


世の中には、メシが食えて雨風しのげることが夢で、それすらもなかなか叶えられないヒトがいるわけですから。だからワタクシ自身、夢ってないのです。メシが食えて雨風しのげて、やりたくないことをやっていても、それでもやれるところでやりたいことができればいいのです。


夢に実体はないのです。それをあたかも実体があるかのように数値化して、あっちはいい、あっちはダメだとか決めつけてしまうのって、結局自分を疲弊させてしまう気がします。おめでたいですかねこういうのも。