KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

「徘徊と呼ばない」ことでじゃあ誰が幸せになるのか

福岡県太宰府市で11月1日、外出したままの認知症患者への対処法を体験する「声かけ・見守り模擬訓練」が行われた。昨秋の訓練は「徘徊模擬訓練」との名称だったが、今回は「徘徊」という言葉を外した。企画・運営を担当した龍頭吉弘さん(70)は約15年間、認知症の高齢者を預かる施設を運営し、外を歩き回る患者には「子どもを迎えに行く」「晩ご飯の準備をするために自宅に帰る」といった理由があることを知っていた。

 「『徘徊』が認知症の問題行動の象徴とされ、理解の妨げにもなり得ると思い、名称を変えた」と龍頭さん。地元で開く講座などでは「その人の人生を知れば、外へ出て歩きたい理由も分かる」と説いている。

 太宰府市以外でも、熊本県山鹿市の一部で訓練の名称から外したほか、今年から訓練を始めた佐賀県基山町は「適切な言葉とは言えない」として初めから使わないことを決めた。

「徘徊と呼ばない」運動広がる…認知症患者の尊厳守るため

そりゃあ理由があるのは当然だ。認知症のヒトにも人格があるのだから。ただ現実との乖離というものがあるからそれは時に危険がおよぶこともある。それは結局「あてがない」ということになるのではないのか。


徘徊と表現することで衆知を助けることができるのならば安易に変えるべきではない。そもそも現場で認知症のお年寄りのシモの世話もしたことがないようなニンゲンが理想論だけで言葉狩りなどしてくれるな。


こうしてどんどんと認知症のお年寄りを”神聖化”していく動きにうすら寒さすら感じるのだ。現実はそんなお花畑ではないのである。徘徊は徘徊。神聖化をすすめるニンゲンというのは、それに比例してお年寄りのために働くニンゲンを奴隷化していくのだ。


偏見と決めつけるニンゲンはだったらどんな呼び方が適切だというのだろう。きっと正しい答えは導き出せないはずだ。出てくる答えなんてきっとピンとこない言葉になっているに違いない。なにが「命のたからさがし訓練」だ。宝なんてあるわけがない。あるのは現実だけなのだ。


筆者の働いている施設にも認知症のヒトがいる。夜中に部屋を出てそれこそ”徘徊”しているのだ。手を繋いで一緒に歩くといつも外につながる非常口まで歩き、外を眺める。目線の先は見ず知らずのヒトの灯りが消えた家である。


そういう時、いつも彼女自身の家族の心配する言葉が出てくるのだ。まだ帰ってこないのかしら。なにかあったのかしら。大丈夫かしらと。こちらがもう寝ているんだよと言うと納得してまた部屋に帰っていく。あてがあってもあてがない。ただ歩いてなんかの拍子で転んでケガすることのないようにするだけ。それが現実なのだ。