KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

電車の中での読書

 先日、勝間和代さんがメルマガで、最近電車に乗るヒトは本は読まずにスマホをみているということを書いていた。たしかにスマホを見ているヒトは多い。そういえば電車の中で新聞やマンガ雑誌を読むヒトというのも見かけなくなった。

  うちの父なんかももっぱら電車に乗っているときの読書はスマホらしい。たしかにスマホひとつで済むなら荷物にならなくていい。小説ならばそっちのほうがいいだろう。家に持ち帰って本棚にいれる手間も省けるし。

 そういえばこの頃は小説を読まなくなった。高校生ぐらいのときはよく読んでいたのだが。本当によく読むヒトのばあいは、ちょっと興味がある作家やテーマの作品も読むのだろうが、読み終わるとそれこそ処理に困る。だから電子書籍は本当に便利だ。

 ただどうも電子書籍というのは苦手なのである。長く読み続けることができない。縦書きの文章をスマホで読んで人差し指で次のページをスライドするというのがどうもダメなのだ。やはり紙の本の方が読みやすい。

 電車の中で読むのはもっぱら新書本だし、持ち運ぶのにも本棚に入れておくのにもたいして場所もとらないし、まあいいかということで割り切っている。新書本のばあい部屋にいる時に、そういえばあんなこと書いてあったっけと思いだして本棚から取り出すことも多い。スマホに入れておくより”大きな面で探せる”ので紙の本がいい。

 別にこれは懐古趣味的なことではなく、あくまで自分が便利ってだけの話なのである。よく昔いたでしょう。計算機より算盤のほうが使いやすいというヒト。それと同じなのである。

 新書本は自分の中にある興味を深めるための補助という役割もあるし、1回読んだだけではそれを補助しきれないところもあるので、本棚に入れておいても邪魔にはならない。そこが小説とはちがうところでもある。

 いままで書いてきたことをまとめると、読書をスマホでできないから、あえて新書サイズの本を電車で読むということになる。マンガも読まないし、ゲームもやらないからおのずとそうなる。タブレットを持ってみようかと一時考えたことがあるのだが、それこそ荷物になるし使わないよとある方にいわれて断念してしまった。