前衛アングラ芸人・きぐるいツネちゃん(明智半平太)のブログ「昭和50年代少年のKOTOBASM」

団塊ジュニア世代とも、悲劇の世代ともいわれる昭和48年生まれが管理する、昭和ノスタルジーといまを語るblog。僕たちが生きてきた証のことば。それはイズムそのものである。(明智半平太)

”適当に死ぬ義務”その適当とは誰が定義する









 曽野綾子みたいな年寄にいちいち反応してはいけない社会の暗黙のルールというのがあるかもしれない。電車のなかで席をゆずるみたいな感じの。だが曽野綾子というヒトは大なり小なりいろんな”力”から守られている感が強い。  だから彼女はこうして好き放題言えるのだ。

 強い力で守られているなら、小生のようなチンピラがブログで書くしかない。曽野綾子に「じゃあお前が死ね」と言葉を投げるのは簡単だ。しかしこのテーマは高齢者問題だけでは語りきれない闇がある。

  ちなみにこの記事は、90代のお年寄りを病院に搬送するため、ドクターヘリを要請したという話に端を発する。ニンゲンどんなに年をとろうが、意思があるかぎり死にたくないという気持ちを持つのは当然である。それほど死生観というのは、ニンゲンにとって重き十字架なのである。

  だが現世においてその死生観をいとも簡単に壊せるものがある。それが「ニンゲンはハナから平等ではない」という特権意識だ。戦争やテロもそういうニンゲンの特権意識から作り出される産物なのである。

 だから曽野綾子自身は自分が年寄だから死んだ方がいいなどとは微塵にも考えていないはずだ。本人のなかでは自分は選ばれたニンゲンであり、意思がある限り自分は死ななくていいと考えているに違いない。

 ただこの高齢化社会のなかで、生産性のない他の年寄は死んだ方がいい。それだけなのだ。それを世間に吐露することによって、若い世代に喝采を浴びたいのである。しかしこういう思考を持つニンゲンというのは、また違うテーマで違う立場にあるニンゲンの、現世における死生観を壊そうとする。

 それは戦争やテロもそう。いつも犠牲になるのは若者ではないか。だからヒトは安易に曽野綾子みたいなニンゲンになびいてはいけないのだ。こういう学校出て労働もせず文章だけ書いてメシを食ってきたようなニンゲンに。

 こんな老婆に”適当”を定義されてたまるか。