KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

小学生女子のスキー場事故死のニュースに物申す

投稿では、この衝突事故の目撃談とされる画像が添付されており、その目撃談では「スノーボーダーに突っ込まれた子供がかわいそうなどの書き込みが多数見られましたが、初心者のスノーボーダーに猛スピードの児童スキーヤーが突っ込んだのが事実です」と綴られている。

スノーボーダーとスキーヤーの衝突死亡事故 目撃談がTwitterで拡散 

 なんとも痛ましい事故だ。この手の事故について感じるのは、部外者であるわれわれは現場を見たわけではないのだし、軽々しく一方的な情報から得た憶測だけで断定するのは危険であるということだ。

 テレビの報道について、実際に観たわけではないが、もし本当に男性だけが悪いような報じ方をしたのであるなら罪が深い。報道というのは主観が入ってはいけない。たしかに女子小学生が亡くなったという事実そのものは悲しいことである。

 しかしその報じ方が、悲惨さを強調するあまりに、単純に大人の方が悪いというふうに誘導する結果になるのは、これまた危険である。 報道のしかたそのもので、報じられた当事者の人生を簡単に狂わせてしまうのだから。

 ましてやこのネットが普及した社会では、情報は簡単に拡散されてしまう。いまやニュースは”ニュースショー”が多く、どうしても個人の見解が入りやすくなってしまっている。けれどもこのような事故は、まず警察の発表などわかっている事実のみを報道するべきなのではないだろうか。

 こういう痛ましい事故までショーにしてはいけない。