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昭和50年代少年のKOTOBASM

団塊ジュニア世代とも、悲劇の世代ともいわれる昭和48年生まれが管理する、昭和ノスタルジーといまを語るblog。僕たちが生きてきた証のことば。それはイズムそのものである。(明智半平太)

イージー・ライダー

【カテゴリ別】本・映画 【年代別】1970年代






(あらすじ)
メキシコからロサンゼルスへのコカインの密輸で大金を得たワイアット(ニックネームはキャプテン・アメリカ)とビリーは、金をフルカスタムされたハーレー・ダビッドソンのタンク内に隠し、カリフォルニアからマルディグラ(謝肉祭)の行われるルイジアナ州ニューオリンズ目指して旅に出る。

カトリック信者の農夫の家でランチをご馳走になったり、ヒッチハイクをしていたヒッピーを拾って彼らのコミューンへ立ち寄ったりと気ままな旅を続ける2人。しかし旅の途中、無許可で祭りのパレードに参加したことを咎められ留置場に入れられる。そこで二人は弁護士ハンセンと出会い、意気投合する。

そして、ハンセンの口利きで釈放された2人は、ハンセンと共にルイジアナ州ニューオリンズに向けての旅を続ける。しかし、「自由」を体現する彼らは行く先々で沿道の人々の思わぬ拒絶に遭い、ついには殺伐としたアメリカの現実に直面する。

 だいぶ昔にも観たことがあるのだが、いま観てもまったく色褪せることがない。それだけアメリカの普遍的にある暗部を表現した映画だと言える。またバイクに乗っているピーター・フォンダやデニス・ホッパーはやはり今観てもカッコいい。

 竹中労が”日本では一木一草に天皇制がある”ということを言ったが、アメリカには一木一草にキリスト教がある。そんなことを感じざるを得なかった。食事の前に祈りを捧げる経験なカトリック信者の農夫。親切で温厚なヒトだ。でも確固たる信念は持っていて、お祈りのときは帽子を外して下さいとビリーに告げる。

 またLSDを服薬したワイアットの幻覚の中に現れる、祈りを捧げる牧師。秩序からの自由を謳歌しているようにみえるワイアットの心の深層にもキリスト教は根づいている。 ただ建国から歴史の浅いアメリカだけあって、ヒトビトへキリスト教を根づかせるのにも強引な部分があったのではないか。

 秩序を守らせるために使われるのが宗教であり、秩序に従わせるために時には暴力を行使したりもする。途中から旅に参加する弁護士のハンセンが3人で野宿している時、ビリーに言った言葉が心に突き刺さる。
 

君に”自由”を見るのさ
自由を説く事と自由であることは別だ
カネで動く者は自由になれない
アメリカ人は自由を証明するためなら殺人も平気だ
個人の自由についてはいくらでも喋るが自由な奴を見るのは恐い
(怖がらせたら)非常に危険だ


 このセリフはイージー・ライダーを語るヒト、だいたいみんなが引用する。それぞれ感じ方は違っても、やはり心に残る言葉なのであろう。また”自由を説く事と自由である事の違い”もまたそのヒトなりにあるのではないか。

 ここでの読み方はというと、”神の御名を振りかざす自由”と”振りかざされた神の御名から束縛されない自由”ということになる。 ”御名を振りかざす自由”というのは、自分より下と思える者を秩序に従わせる自由である。自分の秩序に従わせることは、自分の心の安寧にもつながる。

 もし秩序に従わせることができなくて殺人を犯したとしても、神の御名において罰せられることは無いという確信めいたものを持っている。たしかに聖書の中にはけっこう異教徒と争う話も出てくるのだが。結局ハンセンはこの言葉を語ったあとに暴漢と化した地元民に袋叩きにあって殺されてしまう。

  まあ後味の悪い映画ではある。なんの救いもない。殺人を犯した”秩序に従う”ニンゲンたちも、なんのお咎め無しにこのあとも生きていったのであろう。しかしこうした理不尽について一人考えるのもまた必要な時間なのか。

 そのためにステッペンウルフをはじめとした音楽と、言葉を発することなく楽しそうに走るピーター・フォンダやデニス・ホッパー、ジャック・ニコルソンの姿を見聞きする時間があるのかもしれない。 

 映画をひととおり観終わると何かこう嫌なモヤモヤした気持ちにさせられるのだが、それでもあの3人の楽しそうな姿を思い出すとそれが一服の清涼剤になるのであった。