KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

ミニマリズムなんてしょせんは流行

家財道具、趣味の品など身の回りのあらゆるモノを最小限にして暮らす「ミニマリズム」「ミニマリスト」が注目されている。単なる片付け術や生活術を超え、禅や茶の湯との共通性を語り、心理学で理論武装するなど、生き方、哲学という色合いが濃い。

ミニマリストにやくみつる「ムダなしは人間的ぬくもりない」 
 「人間的ぬくもりない」とまではいわないが、ミニマリストという生き方はできない。趣味のために働いているようなもので、蔵書もない、趣味のモノもまったくない暮らしなんて、はっきりいって暮らしでもなんでもないぐらいに考えているからだ。

 整理はもちろん大事で、やくみつる家のようにゴミ屋敷二歩手前になってしまったらダメだけれども。本を出すぐらいになるまでミニマリストを極めようとすると行き着く先はなんなのか。結局はカネになるのではないか。

 禅や茶の湯との共通性を語り、心理学で理論武装なんていうのは、本を出してカネにするためのあとづけの理由ではないか。ミニマリストという割には、情報をミニマムにできていない。そもそも表に出ないでひっそりとやるのが実はミニマリスト的な生き方ではないのかとツッコミを入れてしまうのである。

 また地震によってモノが凶器となった恐ろしさや、津波によって大事なモノが流されてしまった虚しさというけれども、 それは発達した文明に生きる者の宿命なのだ。それが怖けりゃ人里を離れてテント生活をすればいい。そこまでしてから震災で被害に遭われたヒトを引き合いに出して自己正当化するべきだ。