(オリエンタルラジオ)中田はベッキーの一連の騒動における対応について「公的にはまだ本当の事を言ってないし認めてないっていう認識」だとし、今回の手紙でそれがつづられていることに「それってプライベートで奥さんにわたすとか、文春にわたすためのものであって、それが間接的に伝わることも狙ってるところが、僕はあざとく感じる」と何らかの別の意図が込められていると憶測し、「だから奥さんも(謝罪を)受け付けないんじゃないか」と自身の見解を示した。そう考えているニンゲンなので、この記事中にある「公的にはまだ本当の事を言ってないし認めてないっていう認識」という”認識”にまったく同感ができない。本当のことを公に言ってどうなるのという感覚だ。むしろ公にしてさらに悪意を持ったものに突っつかれて再起不能になってしまったら、どう責任がとれるのかって話だ。
真矢ミキ、中田敦彦の厳しいベッキー批判に困惑
まあ責任逃れのために「自己責任」という便利な言葉があるわけだが。公においての制裁は芸能活動休止している現状をもってすでに終わっている。それを蒸し返して公衆の面前に引きずり出そうというのは、リンチのようなものである。
また”ガッカリした”のだから公に謝罪しろというのも、その”ガッカリした”というのは私的な感情であり、公の場で謝罪させる根拠にはならない。 むしろ”厳しいことを言える自分”をアピールしているようにしかみえないのだった。