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昭和50年代少年のKOTOBASM

団塊ジュニア世代とも、悲劇の世代ともいわれる昭和48年生まれが管理する、昭和ノスタルジーといまを語るblog。僕たちが生きてきた証のことば。それはイズムそのものである。(明智半平太)

島秀雄「D51形蒸気機関車と新幹線0系電車」








今回は日本の鉄道美の原点といえる二つの名車両、『D51形蒸気機関車』と『0系新幹線電車』にスポットを当てます。 設計者の鉄道技師、島秀雄(1901~1998年)が鉄道省に入ったのは、ちょうど機関車の国産化が始まった時代。父・安次郎も鉄道技師でした。設計主任となった秀雄が1936年に生み出したのが、デゴイチの愛称で知られるD51です。その力強い走りから「山男」と呼ばれ、今も群馬県のJR高崎駅から水上駅まで を現役で走行中です。



 
”機能そのものがデザイン”
”最速でも最強でもない でも走りつづけることに圧倒的に優れている”
”最も使いやすい蒸気機関車
”「俺が設計したんだ」と鼻を高々とする必要もない 「かっこいいね」とほめられる必要もない 実用において使える”


D51は1936年から1950年まで機関車として最多の1115両製造された



0系新幹線電車は1964年、東海道新幹線の記念すべき最初の車両として生まれました。時速200キロを超える営業運転を世界で初めて実現。当初誰もが実現を疑問視していた計画は、どのようにして達成されたのでしょうか?実は開発の原点には、秀雄の父・安次郎が主導したある計画が…。



 


「弾丸列車計画(昭和15年)」


 東京ー下関間を9時間で結び、海路を経由して満州・新京に至る広軌鉄道計画。


島秀雄は車両設計として参加。一部着工するも戦局の悪化に伴い中止となる。


 



「合理的なメカニズムは美しくなければならない」――秀雄はこんな言葉を残しています。戦後復興期から高度経済成長期、人々の希望をのせて疾走した美しき名車両。島父子が2代にわたって追い求めた鉄道美学の神髄に迫ります。



 昭和30年、島秀雄国鉄技師長に就任。新幹線開発の指揮をとる。


”さまざまな分野の人たちにキチッと仕事をやらせ最後にまとめ役をする”


”全部島の頭を通っている”


技術研究所の基礎研究を経て国鉄設計事務所でデザイン作業が行われ0系新幹線のフォルムが完成した。


”D51の考え方が0系に反映されている”


”「長期間走りつづける」ことに徹した美学”


 


島秀雄は開業式典に招待されなかった。島秀雄国鉄技師長の職を去ったのは昭和38年5月。時の国鉄総裁・十河信二は新幹線建設の膨大な予算超過の責任をとる形で国鉄総裁を退任。「最大の功労者を追い落とすとは何事か」ということで去ることに。人間の精神に殉じた。


 


0系新幹線電車は3216両製造され平成20年に引退するまで44年間走り続けた。