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昭和50年代少年のKOTOBASM

団塊ジュニア世代とも、悲劇の世代ともいわれる昭和48年生まれが管理する、昭和ノスタルジーといまを語るblog。僕たちが生きてきた証のことば。それはイズムそのものである。(明智半平太)

「なぜ世の中には、感動・頑張る障害者像があふれるのか」――。(障害者情報バラエティー番組「バリバラ」)







障害者描くには感動が必要なのか? 日テレ「24時間」にNHK「バリバラ」が挑戦状 : J-CASTニュースより


  ひとつには、世の中に上から目線で障害者に感動をあたえることを強要しているヤツがいるからだよ。それしか許さないような狭量なニンゲンが、あふれかえっているんだよ。

 それで障害者の側が意図して笑わせようとしているのに、それに反応して笑うと、ナニゴトダ!ケシカラン!と大きな金切り声を出してくるじゃない。大きな声を出したヤツ勝ち社会なんだよ今の世の中って。

 よく障害者の”害”がダメっていうヤツがいるけど、モンダイの質はそこじゃねえんだよ。”害”だろうが、”碍”だろうが、”がい”だろうが、相手にたいして、いろんな痛みをわかろうとしなければ、そんなものは無意味なんだよ。

 ほんらいならば、感動をあたえることも、笑いを提供することも、おなじそのヒトの一部分であるはずなんだけどね。笑いはどこまでが不謹慎なのか議論が必要なのに、そこをすっとばして、笑いそのものがダメと仕切るヤツが幅を利かせているのさ。

 俺はそういうヤツラにたいして、じゃあゲンロンで戦いましょって言いたいわけよ。そこまでエラそうに大きな声で言えるのなら、公衆の面前でも言えるでしょって。サイレントマジョリティもときには声を出さないと。ほんと息苦しい世の中になるぜ。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、俺は君の傍にいる。