KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

どういうことをおしえすぎて、どういう点をおしえおしみするか。かんたんにいえば、知識はおしえるけれど、知識の獲得のしかたは、あまりおしえてくれないのである。(梅棹忠夫)

岩波新書「知的生産の技術」より


  俺なんかは学校ではおちこぼれの類だったんだよね。あのころは詰め込み教育の時代で、いろんな知識を提供されるんだけど、自分のアタマの中の処理能力がおっついていかなかったのさ。

 もしもうちょっと”知識の獲得のしかた”を知っていればもう少し学校の成績もよかったはずだよ。まあしかしニンゲン過去には戻れないから悔やんでもしょうがないけどね。

 しかしニンゲンはいくつになろうが、知識を得なきゃいけない。知識の獲得のしかたを知ることはいくつになっても遅いということはないよね。どんな仕事でもまず知識を頭に入れて体を動かすわけだしさ。 

 この「知的生産の技術」という本は昭和44年に書かれた本だから”ペンからタイプライターへ」なんていうところもあるけど、意外とインターネットでも活用できるから一読をおすすめするよ。

 しかしおすすめしておいて、じゃあすすめている自分がこの本をわかっているかというと、それもあやしいので、このブログを使ってアウトプットし、まとめてみようかと考えているんだ。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、俺は君の傍にいる。


 



知的生産の技術 (岩波新書)

知的生産の技術 (岩波新書)