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昭和50年代少年のKOTOBASM

団塊ジュニア世代とも、悲劇の世代ともいわれる昭和48年生まれが管理する、昭和ノスタルジーといまを語るblog。僕たちが生きてきた証のことば。それはイズムそのものである。(明智半平太)

そもそも郊外において自転車やバイクは必需品なのだ







 さて前回、「ほんとうにクルマはすべて自動運転になるのか」という題で記事を書いたが、バイクは早々と絶滅するのかどうかについて続けたい。クルマが自動運転になると、おなじ原動機がついているバイクはジャマなのだろうというのは書いた。

 おそらく自動運転派にとってみれば、スムーズに走るために脇をちょろちょろと走る、自動運転じゃないバイクはいらないというのが理屈であろう。あると事故が起きるかもしれないという恐れがあるにちがいないのだ。

 けれども日々バイクに乗る側にいわせれば、バイクが走って事故が起きるのなら、それは自動運転車の欠陥なのである。ならば自転車はどうする。巻き込み事故まではたして予測できるのか。予測できないとするなら自転車も絶滅させるのか。 

 バイクも自転車もニンゲンにとって貴重な足なのである。あるていど人口が密集した郊外においては特にそうだ。これから先、ニンゲンの働き方を考える上でも、バイクや自転車は通勤の足として必要になってくる。

 育児や介護の今後を考えれば、家の近くで働くという選択肢は増えてくるはずだ。よく機械がニンゲンの仕事を奪う、これからは在宅でパソコンの前で仕事をやる時代がやってくるなどというが、それでも現場に出て体を使ってやる仕事はたくさん残る。機械ができないニンゲンの手作業を必要とする仕事はある。

 そうなってくると必要になるのが、手軽な通勤の足なのである。すなわち自転車やバイクなのだ。それを必要とするヒトも自動運転の車やバスに乗らなければならないのか。それはかえって非効率じゃないか。結局はだ。機械がニンゲンを動かすんじゃない、ニンゲンが機械を動かすのだ。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。