KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

原作者がお亡くなりになっているのだから物語の結末はファンの想像にゆだねられている【「キャプテン」「プレイボール」の”続編”】

 「キャプテン」と「プレイボール」は、それぞれ1970年代にちばあきお先生によって制作された野球漫画である。小学校低学年のときから読んでいた、いちばん大好きな野球漫画であった。

 
 ちなみにキャプテンは主人公の谷口タカオをはじめとした墨谷二中野球部4代のキャプテンを主人公にした物語で、かたや「プレイボール」は、墨谷高校に進学した谷口タカオを主人公にしている。つまり物語がつながっているのである。

 それぞれ最終回をむかえたとはいえ、キャプテンにおける最後の主人公の近藤も、プレイボールの谷口も卒業していない。続編があってもおかしくない終わり方であったが、ちばあきお先生の死をもって、それも幻になったとおもわれた。
 


 しかしちがう作者によって、続編が復活するのだという。正直なんてことをするのだというおもいがする。いくら今度の作者がちばあきお先生ならこう描くだろうと考えていても、ちば先生は亡くなっている以上もう物語は終わっている。

 そしてあとはもうファンひとりひとりの想像に、物語はゆだねられているのだ。きっとこうなっているんじゃないかなという、それは侵されたくない大事なファンの夢なのである。

 ちばあきお先生ならこう書くだろうという今度の”作者”の物言いじたいが、こういっては悪いが、おこがましいのである。そっとしておいてほしいというのが、正直な気持ちだ。

 それにもう「キャプテン」や「プレイボール」の価値観は現代にそぐわないのではないだろうか。いまや甲子園に出てくる学校なんて、立派な設備があり全国から選手をスカウトしてくる時代で、猛練習猛練習で水も飲んではいけない時代とはちがうのだ。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。