KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

不名誉でもなんでもない【鈴木康二朗】

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 昭和から平成に変わったばかりのころに、『19XX』(ナインティーン・ダブル・エックス)という深夜番組をフジテレビでやっていた。ある年のヒット曲が流れ、その年にあった出来事を映像で流すという内容だった。

  1977年。BGMは紙ふうせんの「冬が来る前に」。そして映像は巨人の王貞治が756号ホームランの世界新記録を達成したときの映像だった。サビにあわせてスローモーションで流れたその瞬間は、シビれるものがあった。

 このときのピッチャーが、ヤクルトスワローズ鈴木康二朗という。この年ははじめて彼が2桁勝利を達成した年であった。1972年ドラフト5位で入団。身長189センチの長身で、通算81勝54敗52セーブの好投手だった。

 当時はもし756号を打たれたら不名誉な記録だということで、真っ向から勝負をするのを避けているフシが対戦相手の投手にはあった。そのなかで鈴木は真っ向勝負を挑み、内角に決め球のシンカーを投げ込んで打たれた。

 前々から打たれた投手には、サイパン島のペア旅行券がもらえることになっていた。”玉砕”とかけているのだが、当時の戦死者の方にも鈴木康二朗にも失礼な話である。鈴木は拒否したそうだ。そりゃそうだ。プロのプライドが許すまい。

 そもそも打たれたことは不名誉でもなんでもない。たまたま真っ向勝負を挑んで打たれた相手が、通算755号のホームランを打っていた人であったというだけの話なのである。

 これがまた鈴木康二朗でよかったのだ。後年シーズン最多セーブや、最高勝率のタイトルホルダーになるようなピッチャーで。これが無名のピッチャーだったろそたら、なんとなく片手落ちである。

 鈴木は次の年も活躍し、ヤクルト初の日本一に貢献する。1986年オフに引退。その後は地元の茨城に戻り会社員をやっていたのだとか。いまはリタイアして、一人暮らしをしているそうだ。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。