KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

評価などどうでもいい目の前の敵を倒しつづけ愛する人を救うのみ【カラテカ】

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 ”ファミコン”ことファミリーコンピューターは1983年に発売され、またたく間に当時の子どもたちに広まっていった。ゲームセンターで小銭を入れてやっていたゲームもカセットを買ってしまえば、何回でもできる。夢のようなハードだった。

  ただ無数に発売されたファミコンのカセットのなかには、つまらないゲームいわゆる”クソゲー”なるものも多く存在する。「たけしの挑戦状」「バンゲリングベイ」「スペランカー」など思い出すだけでもそれはたくさん存在する。

 その”クソゲー”のひとつに「カラテカ」がある。最初はアメリカのapple2のソフトとして開発され、その後ファミコンソフトになった。つまり元は、意外なことにアメリカのゲームだったのである。



 そしてこのゲームをやったことがある子なら、みんなやったであろうこのお約束。そもそもなぜにわざわざ、このような崖を背にしてスタートするのか。謎であった。だがその謎はapple2の方のオープニングをみるとわかる。

 主人公は崖を登ってここまでたどり着いたのである。これから己の肉体のみで多くの敵と戦うというのに、なんという苦労であっただろう。それも知らずに子どもたちは、いとも簡単に、主人公には見えない力でコントロールし、崖から落とすのであった。

 このゲームが斬新だったのは得点がないところだった。得点などという目に見える評価なんていらない。とにかく現れる敵をすべて倒して、愛する人を救えばいいのだという、武士道に通ずる潔さを感じる。

 そしてこのゲームは、ファミコンソフトという表現的に限られたなかでも、演出のよさと、グラフィックのきれいさと、動きのリアルさがあった。あの崖に落ちる主人公のリアルなこと。

 だからその動きの美しさを体験するため、みんな崖から落としていたのか。いやたぶん単に面白がってだろうけど。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。