生まれる前の事件なのだが、犯人が撃たれたときの映像は、子どものころに何度もテレビで観た。日本テレビ系列の放送局が撮った映像なので、同局で不定期に放送された「カメラが捉えた決定的瞬間」だったはずだ。
いまではこの映像をふくめ、ヒトが死亡する映像は放送基準が厳しくなり、テレビで流してはいけないことになっているらしい。だが映像そのものの恐ろしさよりも、この放送基準の厳格化の方がある意味おそろしい気がするのだが。
”閲覧注意”と添えればいいだけのハナシであろうに。ということで、次に出てくる動画は本当に閲覧注意をお願いしたい。ただ残酷ではない。どちらかというと考えさせられる映像である。
こういう映像をテーマにして話し合う機会すら奪ってしまう圧力団体などによる同調圧力というのは、ファシズムそのものではないだろうか。制作側も制作側だ。そういう圧力に無条件で屈するから、テレビは勢いをなくしてしまうのだ。
この動画を観て”死んで当然じゃん”みたいなことを言うヒトがいる。はたしてそうなのだろうか。当然ってなんなのだろうか。少なくとも狙撃した警察官は死なせようと思って撃ったわけではない。当たりどころが悪かったのだ。
ましてやこの犯人の川藤展久は、車や銃を強奪し船をジャックして銃を何発も撃ったけれども、ヒトを殺めたわけではない。犯罪自体は許されるべきものではないが、よくヒトを殺めずに、ここまでやったものだとさえ思う。
結局、川藤を狙撃した警察官は、人権派の弁護士に訴えられて無罪になったけれども、みずから警察を辞職するという後味の悪い顛末になった。せめてこの警察官のことを考えるのなら、今を生きるわれわれは軽々に”当然”などと言ってはいけない。
今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。