KOTOBASM

頭の中にある思想は言葉ではない。映像でもない。いうなれば《もやもや》である。その《もやもや》を手先を使って記録することではじめて言葉になる。

50年後の未来とイケダハヤトさんの話【特集・未来予想図】

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 2061年。おそらくこの世にはいないから、たしかめようがないのだけれど。とりあえず”空飛ぶ自動車”はできそうなかんじがまったくしない。はたして人工知能搭載の自動運転の車は誕生するのであろうか。

  1961年に描かれた未来予想図なので、各々の造形がむしろ古臭いのは目をつむっていただきたい。まさか1961年のころには、板状の液晶テレビが21世紀にできているなんて思いもよらなかったであろう。

 そんなこんなで、未来を予想するのは実にむずかしい。予想外のことがおきる。だからこそ未来なのであろうし。さてこのプロブロガー・イケダハヤトさんの未来予想はどうであろうか。

 当管理人が就いている介護の仕事については、いまのところ人工知能でまかなうのは無理だろうとしかいいようがない。その大きな理由がある。仕事というのは、頭脳だけでなく、身体が必要であるからだ。

 たとえ人工知能が高度になっていったとしても、その知能から発せられる指令を実行する身体がなければ、意味をなさない。そしてヒトを介護するからには、頭脳も身体も柔軟性が肝要になってくる。

 認知症のヒトの行動を、はたして人工知能は読み取ることができるだろうか。対処するには結局、柔軟性のある対応をするしかない。人工知能が高度になっても、やはり人間の頭脳の柔軟性には勝てないであろう。囲碁や将棋とはワケがちがう。

 もし介護の仕事が人工知能ではできないとして、それでもイケダさんのいうみたいな、人工知能に仕事をさせて、そのぶんニンゲンが自由な時間を謳歌させる社会を作ろうとしたらどうなるか。

 おそらく介護は、”奴隷”のやる仕事になるであろう。あらたな身分制度を作らなければならなくなる。みんなで公平に分担するなんてことはしない。”奴隷制度”を作ったほうが楽だし簡単だからだ。

 あくまでこれは極論であるし、そのような世の中にはまずならないであろう。やはり仕事というのは、ヒトとヒトとのかかわりであるし、サービスという概念がある。人工知能はヒトの仕事を手伝ってくれる便利な”道具”にすぎないであろう。

 それで育児や介護の負担が少なくなってくれれば、これほどありがたいこともない。

 今日のところはこれまで。ごきげんよう。この呼吸が続く限り、僕は君の傍にいる。